2015/5 №360 小熊座の好句 高野ムツオ
淡雪は七十億の供花として 髙橋 彩子
「発句は必ず言ひ切るべし」は順徳院の『八雲御抄』の有名な言葉だが、この辺り
から、俳句における切れと切字が重要視されるようになった。そして俳諧が盛んにな
るにつれて、「切字なくては発句の姿にあらず」(三冊子)とまで言われるようになる。
もっとも、この言葉に続けて「切字なくても切るる句あり」とも述べられている。肝要な
のは切字のあるなしではなく「切れ」の働きであることを芭蕉は重んじていたのだ。こ
れは今更強調するまでもない周知のことであろうが、念のため記した。対して、平句
のように切れがない表現は、一句の独立性や完結性が希薄で不安定感を与える。そ
のため忌避されてきた。しかし、不安定である分、読者の想像力を、十七音のその先
へと促す働きをよりもたらす。その力を生かした一人が高浜虚子である。こんなこと
を述べていると、それだけで終わってしまうので、掲句に戻るが、これも切れの緩い
句である。単純には「眼前に降って来る」と言った意味合いの下句は省略されている
と仮定することができる。しかし、その他にさまざまな想像をかき立てる効果を、この
「として」という措辞がもたらす。「七十億」はここでは世界の人口数。つまり「淡雪」が
人類の供花なのだ。すると隠された下句は「人類を悼み降る」とも読むことができる。
この句では人間はすでに滅んでいる。それは核爆発のせいではないかと安易ながら
も想像するのは私一人ではないだろう。東日本大震災当日にも淡雪は降っていた。
雪は人間を悼み降るのだ。
仁平勝は虚子の〈大寒の埃の如く人死ぬる〉という句に触れて、「切れを拒否してい
る」とした上で、「『死』もまた日常の平凡な風景と同じようなリズムであらわれ、そのま
ま切れ目のない生活過程のなかにまぎれようとしていた」と指摘しているが、それに
倣えば、彩子の句もまた、日常の延長として当然のように人類の最期が訪れると読
める。そこにも、この句の恐ろしさとそれゆえの魅力があるのではないか。
春愁の炉心の底の潦 渡辺誠一郎
下五が体言なのでかろうじて切れるが、助詞が単調で切れ意識が希薄。最初「春
愁や」ではないかと思った程だ。だが、すぐに「炉心」そのものに春愁が潜んでいるこ
とに気づいた。作者の内なる炉心なのだ。
可燃ゴミ出して東京空襲忌 武良 竜彦
三橋敏雄の〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉が想起される。日本家屋は可燃物資
の山。そのことを作者も連想したのだろう。
普賢岳火砕流跡初音せり 中村 春
平成三年からの普賢岳の火砕流は世界で初めて継続的に映像化された噴火活動
という。可愛らしい鶯の声のなんとたくましいこと。
春の星終の別れは手を振らず 日下 節子
死というもののあり方が鮮明にとらえられた句である。
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