2015 VOL.31 NO.362 俳句時評
ポスト造型論についての覚書2
宇 井 十 間
1
第二の誕生。
蓮實重彦は1933年頃の映画をこう呼んだ。このとき映画は視覚実験のメディアから大
衆娯楽へと生まれかわった。その代償も大きかった。
第二の誕生以後、映画の製作者たちは、自分が表現したい世界を追求するにあたって
つねに大衆性を意識せざるをえなくなった。表現する(考える)ものではなく、売れる(共感
する)ものへ。
おそらく同じことが俳句でもおきた。それは、いつか。
2
俳句とその歴史を考えるときに、同じように、その第一と第二の誕生を考えなければなら
ないだろう。俳句の場合、しかし、この二つの位相は逆転している。まず第二の誕生があっ
た、それから第一の誕生が到来した。そして、そのような反転構造は、金子兜太について
考えるとき重要なヒントとなる。
さらに金子兜太において、この二つの誕生の秘話は、もう一つ別の座標軸と連関してい
る。第一の誕生としての俳句は金子作品の表層を様々に彩ってはいるが、しかし時系列的
に見るとそれらはしだいに第二の誕生にむかって収斂していくようにみえる。しかし、それ
以上に重要なのは、彼の俳句があらわにしてしまうその身体性そのものであろう。その事
を端的に示すのが律の論理であろう。
3
書き手が造型する音の本質はその書き手の身体感覚に他ならず、どのように律が制度
化されたとしても、個々の俳人の身体性はそれに対する違和を感ぜざるをえない。五七五
ないし五七五七七の定型を破壊しようとする衝動は、実際にはどの書き手のうちにもある
はずである。それが表面化するかどうかは、一つにはそのような違和感がどれだけ書き手
の言葉を支配するかであり、もう一つには個々の俳人の習慣の問題にすぎない場合もあ
る。私個人は、俳句を作るときいつもそのような衝動を感じてしまう。しかし、それを感じな
い書き手もいるであろうし、感じていてもそれを抑制している場合も多くあるであろう。金子
兜太に字余りが多い理由は、明らかにそのような衝動が強靱で持続的であるからであり、
それは取りも直さず、主題的なレベルでの造型論の追求と呼応している。
兜太の場合、その韻律は単なる字余りという範疇を大きく越えて、俳句定型そのものを
異化し破壊する衝動に他ならない。だから、その作品に対するとき、そのような反俳句へ
の衝動が、多かれ少なかれ読者にも生じてしまうはずである。即ち、金子兜太の異様な韻
律とともに、読者は次のような質問をせざるをえないだろう。俳句は破壊されるべきものと
してそこにあるにも関わらず、なぜ私はそこから自由になろうとしないのか。あるいは、な
ぜそのような不安定で動揺しつつある制度が、安定した社会習慣として現在定着している
のか。私は私の違和感を、なぜ表現してはならないのか。これらはしごく自然で真っ当な質
問であるにも関わらず、俳句の世界ではあまり問われる事がない。そしてそれ故に、良心
的な読者にとって、兜太の作品は、俳句定型に関する最も本質的な質問そのものとなりう
るのである。
4
俳句時評というこのコラムの性格上、兜太論だけで稿を終える事はできない。同時に現
在進行形の題材も取り上げなければならない。以後、基本的にはこのスタイルで時評を書
きついでいく事になるだろう。
3月24日に第8回佐藤鬼房顕彰全国俳句大会が開催された。幾つか目に留まった事に
ついて書き留めておく。大会の選句は一般部門とジュニア部門に分かれているが、今回全
体を通じて面白かったのがジュニアの部の句であった。以下、引用する。
煮凝りや記号化されゆく日常
冬林檎化石みたいな空しさよ
鏡の中贖罪のごとく凍蝶
海溝の軋み続けるクリスマス
本当のことが知りたい終戦日
初めの4句はやや実験的な作りの句だが、どれも理に落ちていないところがいい。最後
の句は、「本当のこと」について考えさせる句。ただし、結句が「終戦日」でなくても(「ベトナ
ム」や「原爆忌」でも)成立してしまうところが難点か。
むろん、俳句は年齢を付して読む訳ではないから、本来は一般とジュニアの二部門を分
ける事自体がおかしいのだが、それでも今回は明らかに後者の勝ちであったような気がす
る。全体に発想が柔軟で、刺激的な句が少なくない。むろん、未成熟な句もかなり多いが、
それでも一般部門ではあまり見られない自由な句作りが目立った。
大会では例年のように、佐藤鬼房についてのシンポジウム(今回のテーマは「鬼房俳句
の諧謔について」)も開催された。私もパネリストとして参加したので内容についての論評
は避けるが、いまふりかえってみると諧謔についての掘り下げた議論がやや足りなかった
ような気がする。それと、時間的な制約もあるとはいえ、会場を巻き込む工夫をもう少しし
た方がよかったのではないか。主題的な面でもう一つだけ言及するなら、私は、兜太と同
様に鬼房にも同じような反俳句の衝動を感じるのだが、愛や諧謔という最近のシンポジウ
ムのテーマはむしろそれを隠蔽するように作用していると思われてならない。
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