小 熊 座 2015/7   №362 小熊座の好句
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     2015/7   №362 小熊座の好句  高野ムツオ



  俳句は五七五、三文節の単純な構成の詩だ。そして、その文節または文節の間に

 一カ所断切を入れ、二つの構造体とするのが二句一文章、断切を入れずに十七音

 の終わりにのみ断切の働きを持たせるのが一句一章である。そうした言葉の構造を

 利用して、さまざまな物象や情景、イメージなどを配置または組み合わせ、時にはそ

 れらを衝突させたり、融合させたりして小宇宙を作り出すのが、俳句表現ということに

 なる。しかし、その関係のありようは、なかなか一筋縄ではいかない。関係が明確な

 場合もあるが、関係が、あいまいでさまざまなことを想像させるがゆえ、深い世界や

 思いを湛えるということもある。

    耳遠くなれば聞こえる青葉潮        佐々木とみ子

    欠伸するたびに紫華鬘ふゆ         我妻 民雄


  どちらも肉体的な変化が起因となって、それに事象が呼応したように表現されてい

 る。現実的にはあり得ないことだが、その強引とも言える因果関係が、読者の五感体

 験として共鳴し受け入れられるかどうかが、俳句としての成否の分かれ目ということ

 になる。たぶん、一般的な散文の叙述の中では不可能なことなのだろう。しかし、こう

 した言葉の構成や飛躍は、俳句形式という極度に限定され、緊密化された世界では

 むしろ、読み手の想像力を誘い出す大きな力を発揮する。「青葉潮」の音とは年を重

 ね、世俗世界の物音が聞こえなくなって来たとき、初めて聞こえ出すものなのだ。紫

 華鬘という荘厳な名を持ちながらも、木陰などにひっそりと咲いている目立たないが

 生命力の強い草花は、人が眠気に誘われるときにこそ、一面に増え出す。現実には

 あり得ない、この因果関係を詩の世界において可能とするのも、また俳句形式の力

 である。

    毛虫焼く炎見てより変声期         春日 石疼

  この因果関係もまた同様。命の無残に初めて出会った少年の心のありようが変声

 期をもたらす。

    万緑やどこを向いても骨軋む        土見敬志郎

    手に残る緑の匂い処刑の地         佐藤 レイ

  そうした詩的関係は、さりげなく向き合わされた言葉同士にあっても生ずるものだ。

 「骨が軋む」のは「万緑」という生命力旺盛の時節ゆえ。身体の基盤とも言える骨が、

 一本一本、木となって万象と呼応する錯覚にとらわれる。草を引いたはずでもないの

 に手のひらに残って取れることのない緑の匂いとは、実は、処刑地という、かつて悲

 惨が行われた地を歩いた、その心の奥から漂ってくるのである。

    きのふ来て今日帰る街ソーダ水       斎藤真里子

  一読、神野紗希の〈ここもまただれかの故郷氷水〉を連想した。一期一会の街も、

 また心に深く刻まれることがある。

    かつて名に一あり二あり夏帽子       遠藤 志野

    十能も五徳も消えて青嵐           橋本 一舟


  数字を生かした二句。一昔前の大家族制度が思い出されるのが前句。後句は「青

 嵐」が回想装置となる。





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