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2015/8 №363 小熊座の好句 高野ムツオ
蚊遣火の渦巻となり妻消える 篠原 飄
昔話には、妻に逃げられてしまう話がずいぶんある。「蛇女房」「鶴女房」「鶯女房」
それに「雪女房」を加えてもいいだろう。バリエーションも豊富だが、いずれも、妻との
約束、つまり禁忌を破ったため、妻が異界へ帰ってゆく筋書に共通性がある。「蛇女
房」などは『古事記』の豊玉姫の説話にも通じている。更に遡及して、東南アジアあた
りの部族間の宗教的習慣を冒すことを戒めた話が原型との説もあるようだ。しかし、
こうした昔話が長い間、広く語り伝えられてきた背景には、出産や病などで命を落とし
てしまう女性やその悲しみに嘆きながらも孤独な暮らしを続けてきた人々がどこにも
たくさんいたことに由来するだろう。
この句では、妻は蚊遣火の渦巻となって消えたという。昔話の多くは異類とはいっ
ても生き物だから、再会を果たす筋書きも多い。しかし、蚊遣火の渦巻、それも、お
そらくは灰と化してしまったそれは、触われば崩れ吹き飛び、もう二度とよみがえるこ
とはない。そこに昔話とは違ったリアルな悲しみが湛えられている。かつて妻としみじ
みと語り合った夏夜にも蚊遣火は焚かれていた。今はその灰だけが残っている。蚊
遣火の渦巻形が蛇女房の蛇に似ていることがもたらす諧謔味も、その悲しみをより
深いものにしている。
楢葉標葉山河を容るる代田なし 坂本 豊
標葉は古くは椎葉、染葉とも表記された。八世紀初期、陸奥国や常陸国から岩城
国が昇格する際の六郡の一郡名である。楢葉は平安末期、岩城郡から分郡した時
の名である。どちらの地からも古代の建造物跡や土器類が出土されている。明治二
十九年に、この二つが合併して双葉郡になった。東日本大震災の原発事故中心地、
双葉、浪江、大熊などの各町はここに所在する。事故以来、そのほとんどは帰還困
難区域に指定されてしまった。田はすべて荒れるにまかせるしかない。作者は、その
前に立ち尽くす。そして、かつて故郷の山河を水に映しながら田植えを待っていた、
ありし日のうるわしい代田を眼裏に思い浮かべているのだ。楢や椎の梢が風に揺れ
ながら、「ここに帰れ」と手招きしているかのようにも読めるところにも、土地の魂まで
が、人々の帰還を待っている思いがこめられている。
質草にならぬ女と初鰹 長尾 登
むろん、江戸川柳の「女房を質に入れても初鰹」を踏まえている。読んですぐひらめ
いたのが橋本夢道の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたるものを食わしむ」である。どちら
もかつての男尊女卑の見本のようで、セクハラ、モアハラと避難されそうだが、実は
反語表現である。橋本夢道も有名な愛妻家、この句の作者もそうに間違いない。謹
厳な作者に珍しくユーモアたっぷりだが、初鰹を仲睦まじく食べている情景が見えてく
る。
象歩むたび万緑の波打てり 土見敬志郎
万緑を迎えるための肺ふたつ 千倉 由穂
ベテラン、新鋭の万緑二句。ジェンダーの違いも明確。
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