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小熊座・月刊
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2015 VOL.31 NO.367 俳句時評
この一年
矢 本 大 雪
去年から今年にかけて、小熊座にはいろいろなことがあった。
まず嬉しいことから始めよう。高野ムツオ主宰が、句集『萬の翅』で第65回読売文学賞、
それに引き続き第48回飯田蛇笏賞を受賞した。もう去年のことになるのだが、まだその興
奮が胸を去らない。素人目にも、蛇笏賞は最高峰の賞として、昔身近にいた成田千空さん
が苦節の末、晩年になってようやく蛇笏賞に名を連ねたことを知っているだけに、60代の
若さであっさりと受賞してしまったその実力に、心底驚いた。
細胞がまず生きんとす緑の夜
瓦礫みな人間のもの犬ふぐり
陽炎より手が出て握り飯摑む
これで、高野主宰には、なに気兼ねなく、自分の作品に邁進していただけるだろう。もち
ろん、これまでも賞を意識して句作されたわけではないのは、よく知っている。だからこそ、
自分の世界に没頭できる境遇をうらやましく思うわけである。ただ、小熊座のことも、煩わ
しいでしょうがお忘れなく。
さて、続いて今年、渡辺誠一郎編集長が、句集『地祇』で、第17回俳句四季大賞、第70回
現代俳句協会賞を受賞した。受賞がその句集の最終目的地ではなく、単なる通過点とは
いえ、この句集がまっとうに、正当に評価されたということは、まことに嬉しくてたまらない。
母の日の舌にしほがまくずれたり
地の底に行方不明のさくら咲く
海をまた忘れるために葱刻む
「この度受賞を励みに、今後はおのれの存在を凝視して詩想を深め、「地祇」のごとく目
線を限りなく低くしながら、無器用ではあるが、地に足をつけた世界を綴っていきたいと思
っている。」これは現俳協の受賞後の弁であるが、小熊座を支え、引っ張るお二人がかくも
謙虚にしかも、壮烈な覚悟を見せていることに、わたくし自身は身の縮むような恥ずかしさ
を覚えた。何の覚悟もなく、ただ漫然と俳句の世界に遊んできただけの身を、怒鳴りつけら
れたかのような思いがよぎった。
私自身の俳句人生を何とかしなければならない、という思いに拍車をかけたのが、畏友、
佐々木とみ子さんの突然の死であった。全く突然、わが年上でおっかない、そしてとてつも
なくやさしい先輩はこの世を去ってしまった。私が小熊座に入会してから、青森市での句会
で知り合った先輩であり、女冒険家とでも呼べるべき、辺境の地へ一人で出かける人でも
あった。彼女の句のうまさを、指をくわえ、うまいことは恥ずべきことだとうそぶきながら句
を作っていた私は、どんどん俳句の本筋から外れて行ったようだ。
燭を入れし雪胎内のさくらいろ
いっせいに稚魚の生まれる木曜日
梅雨のまにまに百済観音とは乳房
この三句がおさめられている句集『まんどろ』の終りに、高野ムツオが解説に代えて、と
いう文章で彼女の言葉を紹介している。
――本当に表現したいのは目に見えないものなのにそれができない。だが耳を凝らすと、
夜っぴいて砂漠を渡ってくる風は吹雪の音と同じだし、砂嵐を耐えている駱駝の姿は寒立
馬とそっくりだ。上北あたりの海辺に立つ風垣の肌は、ねじれよじれに枯れながら砂漠に
立っている胡楊の木肌と似ている。底辺できっと通い合っている何かを知りたい気がする。
だが、死ぬまでかかってもわからない。――
この真摯さを、この探究心こそを見習わねばならない。俳句が一時的にうまいと褒められ
たり、感心させたりする現象を無意味に恐れてはならない。本質とは、何のかかわりもない
ことなのだ。ただ、目には見えてこないものを耳を微かに触れてゆく音をとらえ、それを自
分の俳句としなければならない。それが唯一、自分を救う道なのだと、とみ子さんの祭壇に
誓っていた。一生かかっても遠い道のりになるだろう。
さて最後に、哀しい知らせを書かねばならない。もちろん、我々にとっては袖触れ合った
だけで行過ぎた人のことなのだろう。
平成二十年三月の、佐藤鬼房顕彰、全国俳句大会のジュニアの部において、佐藤鬼房
奨励賞を受賞した、加賀谷里沙さん(当時、名取北高校三年)が、演劇を夢見て上京し、
バイトに汗していたさなかに、奇禍に遭い帰らぬ人となってしまった。
あまりにもカシオペア座で湯ざめかな
これが受賞句であるが、当日は、まだ震災前の壱番館塩竈市遊ホール五階を会場とし
ていたことも懐かしい。が、若々しい感性が無情に摘み取られてしまったことへの憤りが、
さらに激しい。
1億余りの人口を有するわが国で言えば、そのうちの一人にすぎず、殺人という残酷な現
状も甘んじて受けねばならぬのか。本人にどれだけの落ち度があるというのか。我々はこ
の一句に掲げられた、雄大で瑞々しい感性を失ったことを悲しもう。彼女がこれからの人
生で再び俳句に目覚め、帰りくる機会を無残に奪われたことを悲しもう。この一日で通り過
ぎてしまったかもしれない一句が、再び立ち上ってきてしまった。
こうしてみると、たった十七文字の文芸がいかに力を持っていたのかがよくわかる。無残
に一人の才能を奪いながら、のうのうと生きながらえる鬼畜の生涯を想像しながら、奪わ
れてしまったひとつの才能の無限の可能性に、首を垂れるのみである。四人の俳句で結
ばれた軌跡をたどりながら、ただただ、自分の俳句の行く末、茫々たる荒野に思いをはせ
てみた。
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