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小熊座・月刊
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2016 VOL.32 NO.372 俳句時評
鬼房俳句と戦争について
宇 井 十 間
船霊の在りしあたりの水かげろふ (霜の聲)
冬蔵す季の重みや父の国 (瀬頭)
鬼やんま沼を突きぬけ帰り来ず (枯峠)
ある体験がその俳人にとってどれだけ意味があるかを計るには、それに関する様々な前
提を切り崩していってもなお、作品の上でその体験がなお明確な像をむすぶかどうかを問
題にすればよい。たとえば鬼房における戦争体験の意味を考えるとき、われわれはともす
れば戦争が人間鬼房にとってどのような体験でありえたか(ないし、ありえなかったか)を論
じようとしてしまう。しかし、すでに以前にも論じたように、鬼房の俳句に一貫する特徴のひ
とつは、その作品と読解が人間という仮構から自由である点にあり、彼の俳句の多くがそ
のような自在な視点から構成されている。だとすれば、鬼房における人間的体験としての
戦争を論じることにどのような意味があるか。
一言で戦争といっても、事実としての戦争と、体験としての戦争があり、さらにそれらが言
語化された上でのテキストとしての戦争がある。いずれも個別の論点としては多くの問題を
抱えているであろうし、それらの間の相関関係についてもそれなりの検討を要する。ひとま
ず体験としての戦争に論点を絞ってみるとしても、そこにはなお多くの疑問がのこる。たと
えば、事実と体験との関係はどのようなものであるか。さらにある体験と作品との接点はど
のようなものでありうるか。一般に、その体験の影響が本質的であればあるほど、伝記的
な事実との間にしばしば齟齬をきたす。というより、そもそも「影響」というリニアな相関関係
で語れるほどの体験であれば、それをあえて作品に還元して論じるほどの意味はないは
ずである。体験が重層的になるにつれて、作品との関係は多面的でしかもその影響は論
理の箍をこえて広がっていく。逆にいえば、せいぜい人間的体験としての戦争を問題にす
るのであれば、あえて鬼房を取り上げる必要がはたしてあるのだろうか。
戦争体験や被災の体験を語る人は多数いるが、多くの場合その人生や作品への影響は
限定的であり、あるいは表面的である。そのような体験の表現は彼らにとってたかだか演
技であるにすぎず、また読者の目にはよくできた商品のようにもみえる。戦争体験(あるい
は被災体験)がひとつの商品であるとすれば、伝記とはそのためのマーケティング戦略の
一部になるだろう。しかし、そのような意味で鬼房と戦争を論じたところでなんら意味はない
であろうし、第一そのような中途半端な戦争論はこれまでも腐るほど繰り返されてきたので
ある。
例えば私は、鈴木六林男の俳句を語る上で戦争はさほど重要ではないと考えている。六
林男にとって戦争体験とは一つの「杖」のようなもので、それなしでは歩いていけない厄介
な過去でしかなかった。私は杖なしで自在に暗躍する六林男の俳句を知っているし、それ
らを語るために戦争の記憶は必要ない。六林男を戦争体験という観点から読もうとする読
者は、彼の俳句のもっとも本質的な部分を見失ってしまう。
佐藤鬼房の場合にも、戦争との関係は六林男のそれと基本的に似通っている。ただ、鬼
房は戦争という「杖」を六林男ほどには信じていなかったようであり、それゆえ鬼房と戦争と
の関係は一見するときわめてわかりにくい。しかし、実際には若年の鬼房にとってその体
験は少なからぬ意味をもっていたはずである。むしろ気をつけなければいけないのは、そ
のような関係を作品上自明の前提と考えてしまうことであり、それによってその意味を過小
評価してしまうことである。
試みに、全句集における任意の一ページから引用してみる。
音無しに眠るや氷柱囲にて (鳥食)
消えず在る爪書きの汝が凍え鳥 (鳥食)
大雪の朝を出でゆく魚の骨 (鳥食)
『鳥食』巻末の三句である。いずれも安易な俳句的な処理がなされていない所に彼の一
つの特徴がある。あとがきによれば『鳥食』は『地楡』刊行のほぼ二年後の1977年に刊
行されている。すでに終戦から二十年あまりが過ぎ、直接的に戦争を語る言葉は見当たら
ない。にもかかわらず、これらの言葉は俳句を書くことによって俳句そのものを消し去って
しまうような、まるで戦争そのもののような激しさを感じさせる。翻って冒頭の三句について
見ても、主題は様々であるが、これらの俳句はいずれも俳句から遠く隔った意識とともに
書かれている。鬼房俳句と戦争という主題にもし何らかの価値があるとすれば、それはこ
のような矛盾的な意識やその激しさと無関係ではない。俳句を疑うことがなく、俳句を俳句
そのものとして作っている多くの俳人たちにとって、鬼房と戦争との関係はなんらかの因果
的関係としかうつらないであろう。だがくりかえすように、そのようなリニアな相関関係だけ
にとらわれると、鬼房におけるもっと本質的な否定性を見落としてしまう。たとえば、次のよ
うな句がある。
鶏骨になりきつて意味なく笑ひけり (地楡)
鬼房俳句と戦争という主題にもし何らかの価値があるとすれば、そのようなある種の虚
無の倫理であり、それが俳句そのものの文体へと向かうエネルギーの強さである。
(佐藤鬼房顕彰全国俳句大会シンポジウムに寄せて)
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