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 小熊座・月刊 
  


   鬼房の秀作を読む (69)      2016.vol.32 no.373



         宮城野の萩の下葉に死後も待つ         鬼房

                                   『愛痛きまで』(平成十三年刊)


  先日知り合いの俳人にこの句を紹介したところ、「すごい恋の句だね」と感じ入っていた。

 ずしんと来る句、というのが私の第一印象だったので、恋という言葉に些か驚いた。

  その人は古今集の詠人知らず「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ

 待て」に思いを馳せたのかもしれない。しかし、萩の露を払ってくれる風を待つように恋人

 を待つという、いかにも儚げな和歌情趣を鬼房は振り捨てている。死後も待つ、とは生前も

 持ち続けたということ。そして生を全うした後も尚待ち続けるのだ。これが恋だとしたら何と

 不動の意志であり覚悟だろう。

  読んでいると気づくが、中七までの調べがたおやかなだけに、続く結句の断定終始形の

 インパクトが大きい。和歌の表現を借りた前半と「死後も待つ」の間にある断絶、それこそ

 が俳句を俳句たらしめる"切れ"ではないかと思う。この切れが結句を上五へと循環させる

 効果を生む。つまり、死後も待つ、そのような精神性を育む風土としての宮城野。単に歌

 枕としての機能を越え、宮城野が読者の胸に深く刻まれるのだ。私の第一印象のずしん、

 はここにあった。

  ところで、私がその晩年に俳句の指導を受けた八田木枯は泉下の鬼房を慕い、「行き暮

 れて萩の下葉の鬼房よ」と詠んでいる。和歌から俳句へ、俳句から俳句へ。詩歌とは命の

 相聞でもあると思わずにいられない。

                            (太田うさぎ 「豆の木」 「なんじゃ」)



   宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ

 源氏物語中に桐壺帝の作として登場する歌であるが、宮城野と言えば萩の花として、古典

 に定着したのはいつごろからであろうか。宮城野萩の幾筋もの花の枝が滝のように流れる

 さまは 《白露もこぼさぬ萩のうねりかな》 を芭蕉が描写し、また細々と哀れげに咲くさまは

 《一つ家に遊女も寝たり萩と月》 と作られている。しかし、こういう情景描写を超越し、萩の

 花に己れの心情をぶつけたところにこの俳句の現代性がある。主体はあくまでも自分(作

 者)であり、宮城野の萩の下葉に隠れて、私は死後もずっとあなたを待ち続けるでありまし

 ょう、という作者の切々たる心情を述べたものだ。「死後も待つ」とまでの強い決意を示され

 て、女性なら誰しも心穏やかではいられまい。

  日本詩歌の伝統を考えれば、待つのは女性であるのが常道かも知れないが、そこを作

 者は強い語調で「死後も待つ」と意志を述べた。相手への不滅の愛の誓いである。作者鬼

 房は外見とは逆に、極めてロマンチックな心情の持ち主だったから、こんな場合、あんな場

 合と想像をふくらませ、俳句表現を試みたに相違ない。それにしても「死後も待つ」は真に

 凄味のあるフレーズだ。うっかり萩の下葉あたりに近寄れなくなりそうに思う。

                                          (阿部 菁女)





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