2016 VOL.32 NO.375 俳句時評
忘却について
宇 井 十 間
以前にも他所で述べたが、私は、歴史的な事実として成立したいわゆる「前衛俳句」と、
ひとつの精神性(実験性)としての前衛俳句とを区別して考えている。後者の意味での前衛
性は、広く現代俳句全体のその良質な成果のなかに常に認められるはずのものである。し
かし逆にいえば、それはつねに隠蔽され、意識的に忘却されてしまっているということもで
きる。だから、ある俳人が系譜上いわゆる伝統系であるかあるいは「前衛俳句」の系譜に
あるかは、本来ほとんど意味をもたない。私の知るかぎり、俳句の短い歴史のなかで前衛
俳句というものにはかつて一度も成立したことなどなかったし、いまでもそれはないに等し
い。所謂系譜というものがどれほど意味をもたないか、その一つの典型的な例として、大
峯あきらについては前々回に述べた。むろん同じことはほとんどすべての俳人についても
考えてみることができる。
口中一顆の雹を啄み 火の鳥や (三橋 鷹女)
私は三橋鷹女とその人生や句歴について多くを知らない。それでも、中で掲出句がとり
わけ印象に残る。系譜からいえば、三橋鷹女については、『薔薇』『俳句評論』参加以前と
以後とに大きく分けて考えられるべきなのだろう。それは作品の大きな傾向として間違って
はいないだろうが、同時に前後期を通じた鷹女の俳句の基本的な性格を見えにくくしてしま
う。三橋敏雄が述べるところの「想像力の豊かさ」「絢爛」「多彩」「主情的」といった前期作
品群の特色(『現代俳句の世界11』解説)は、『羊歯地獄』の作品にもほぼ同様に継承され
ており、その間に大きな断絶があったとは私には思えない。違いがあるとすれば、そこに『
俳句評論』への参加という歴史的事実があることであり、その事実が作者と読者両方の意
識におそらく影響していることである。しかしその事実にとらわれすぎると、後期の鷹女は
重信など前衛俳句に近いから、その作品はより難解である、などという誤謬がうまれてしま
う。しかし、前期後期の句集を通じて、鷹女の方法は比較的一貫しているし、どちらが難解
でどちらが平易ということもない。観察されるのは、俳句におけるある種の「劇」の方法であ
り、違いがあるとすれば、その劇の主体が次第に作者本人から劇の構造そのものへと移
っていったというだけの変化にすぎまい。
あるいは前期において鷹女の「人生」や「主情」が描かれ、それが後期には見えなくなっ
てしまったという感想をもつ読者がいるかもしれない。しかし、実は前期においても鷹女の
「人生」は生のままでは決して描かれてはいない。それどころか、私には、「夏痩せて嫌い
なものは嫌いなり」「みんな夢雪割草が咲いたのね」(『向日葵』)などいずれも演技としての
主情性にしか見えない。これらの句を安直に鷹女の気性や潔癖さを伝える句とのみ解釈
することは危険でさえある。この点は「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」(『魚の鰭』)で
はさらに明らかであろう。実際、この句のすぐ前に「紅葉雨鎧の武者のとほき世を」「幻影
は弓矢を負へり夕紅葉」とあり、一連全体が中近世武者物語の情景であることが明示され
ている。「鬼女」が作者本人の自画像であるとは限らないのである。これらの句をもって鷹
女の主情性を語るなど、短絡的にすぎる。
いま試みに、主情的と評されることの多い第一句集『向日葵』から十句余を抽出するなら
ば、次のような句がある。
すみれ摘むさみしき性を知られけり
絵簾の蟲が鳴くかと思ひけり
しづかにしづかに地球はめぐり荻の咲き
ひるがほに電流かよひゐはせぬか
昼顔や人間のにほひ充つる世に
颱風の底ひ眼のなき魚が棲む
みんな夢雪割草が咲いたのね
空漠とてのひらはあり蝌蚪生まれ
天地ふとさかしまにあり秋を病む
すっぱだかのめんどりとなり凍て吊るされ
亡びゆく国あり大き向日葵咲き
吾がわらひ夏原の日にひびき消ゆ
第一句集においても、いまその虚心にその全句を眺めてみれば、「すみれ」「ひるがほ」
などの句よりも、「昼顔」「地球」「空漠」などの句の方が私には際立って見える。全体として
これらの句に一貫して観察されるのは、種々の物語であり、それらの語りの対象の多くは
鷹女そのものではない、つまり、句集『向日葵』が描いているのは、ときに鷹女本人が対象
となることはあっても、その対象の多くは昼顔や空漠とした大地そのものであるような物語
の世界である。「吾」と明示された最後の句においてさえ、その主体は明白ではない。
翻って『羊歯地獄』についてみても、その基本的な方法は『向日葵』のそれとさほど大きく
は変わっていないようにも見える。赤黄男や重信との交流の時期と重なる句集であるが、
鷹女のドラマツルギーは『向日葵』から遠く隔たってはいない。通常難解と評されることの
多い句集ではあるが、実際には難解であるよりもむしろ、ありていにいえば失敗作が多い
という印象を受ける。むろん、一字あけなどの文体上の変化はあるし、俳句のいわゆる平
常の文法を無視しているから、専門俳人にとっては奇異な作品と映るだろう。
冒頭に引用した「火の鳥」も、『羊歯地獄』所収の句である。この句は、鮮やかな色彩と豊
富なイメージによって鷹女の代表句といってもいい句だが、句の文法が特異であるためか
比較的引用されることが少ない。一字あけの後に結句で「火の鳥や」と主題を提示する文
体は、たしかに重信の多行形式をはじめとする当時の文体実験の影響を感じさせるが、見
かけの「難解さ」とは裏腹に鷹女の表現手法は明快であり、それは同時期の他の作品にも
共通する。
|