2016/9 №376 小熊座の好句 高野ムツオ
蠛蠓のひとかたまりと地球かな 上野まさい
まくなぎは、ハエ目の昆虫、糠蚊の異称である。糠のように小さい蚊という意味であ
る。同じハエ目の揺すり蚊を指す場合もある。どちらも夕方、一塊になって飛ぶ。目
に纏い付くように感じられるので「めまとい」とも呼ぶ。古くは「まぐなき」と呼び、「日本
書記」にすで使用例があるようだ。「ま」は目で、「くなぎ」は「くなぐ(婚)」の連用形が名
詞化したもので交合を意味する。糠蚊が目に入ることを、「くなぐ」と見たという説もあ
るが、蚊が一塊になるのはオスとメスの交接のためだから、小さな蚊の性の饗宴を、
「くなぐ」と言ったのかも知れない。少なくとも、この句の場合はそう観賞した方が面白
い。頭上に繁殖のためにひしめく無数の小さな命とそれを育てる地球という悠久の天
体の対比なのだ。
遠ざかるものに星空釣忍 さがあとり
鬼房の〈老残や年年海の遠くなり〉を思い出した。
鬼房の句の「老残」は老いぼれて生き残ることを意味するが、律令制があった頃、
病気などで身体に障害が残った民を指すとの意味もある。それも意識していよう。身
体に不如意を抱えながらの、身近な海への思いなのである。掲句は空への思い。宇
宙開発のための技術が進んで、月や火星など遠かった天体が身近になる一方、現
実に眺める星空は人々の意識から遠ざかってしまった寂しさを詠んだものだ。釣忍
の向こうにあった真っ暗の空もその奥にきらめく星星も都会の空から消え失せてすで
に久しい。
道祖神のまねきにあひて暑気中り 大場鬼怒多
言うまでもなく「おくのほそ道」の冒頭のくだりを借用した句である。芭蕉は股引の破
れを綴ったり、笠の緒を付け替えたりしたが、自分は暑気中りで苦しむばかりだと自
虐的な滑稽味に転換したのだ。胃腸もしくは痔の持病で苦しんだ福島飯坂あたりで
の芭蕉を偲んでいるのかもしれない。
日本脱出したし真夏のレール伸ぶ みぎて左手
塚本邦雄の〈日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も〉を踏まえてい
る。灼熱に伸びるレールが脱出の願望の象徴となっている。
語部の口の中まで緑夜あり 鎌倉 道彦
昔話の語り部であろう。大きな口を開けて語っているのだから、さしずめ「喰わず女
房」あたり。その口の中にも広がる新緑の闇が、さらに昔話の世界に聞き手を誘い込
む。
福島の汚染土尽きず蚯蚓美し 後藤 悠平
梅雨夕焼六カ所村へつづきをり 佐野 久乃
一句目は、被曝の地の汚染土に生きる蚯蚓を介した福島の褒め歌。二句目は原
子燃料サイクル施設がある六カ所村。梅雨夕焼が未来への不安のように広がる。
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