2016 VOL.32 NO.378 俳句時評
袰 月 村
矢 本 大 雪
九月二十四日(土) 二十五日(日)は、青森で参加している俳句結社、「黒艦隊」の一泊
吟行会であった。場所は毎年恒例となっている袰月村である。まず簡単に説明しておくと、
「黒艦隊」は徳才子青良を代表とする青森県内の現代俳句結社であり、すこし奇抜(と思わ
れている)作品により、やや敬遠されてもいる。しよっちゅう個人的にも、大人数でも吟行を
重ねているので、決して頭の中だけで句作しているわけではない。メンバーの中心には他
に同じ「海程」の後藤岑生氏、故佐々木とみ子氏、千葉芳醇氏、それに私もいて、今回の
吟行は毎年一回以上は行っている、大切な行事ともいえる。募集は振るわず四人が一台
の車に同乗してゆくことになったが、当日日帰りの予定で、角田貴慧氏も参加、いつも四人
でばかり吟行しているので少しは賑やかになった次第。さらに、ここで目的地の袰月につい
て簡単に説明しておく。津軽半島のやませにさらされて、今も昔も貧しい村で、その風景に
ひかれて我々俳人は、かってに訪ねてゆく。また郷土の津軽弁詩人であった高木恭造の
詩でもつとに有名な土地である。
陽(シ)コあだネ村
―――津軽半島袰月村で
この村サ一度(イヅド)だて
陽(シ)コあだたごとあるガジャ
家(ケ)の土台(ドデ)コアみんな潮虫(スオムス)ネ噛(カ)れでまてナ
後(ウスロ)ア塞(フサ)がた高(タ)ゲ山ネかて潰(ツブ)されで海サのめくるえンたでバナ
見ナガ
あの向(ムゲ)の陽コあだてる松前(マヅメ)の山コ
あの椅麗(キレ)だだ光(シカリ)コア一度だて
俺等(オランダ)の村サあだたごとあるガジャ
みんな貧ボ臭せくてナ
生臭せ体コしてナ
若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃げでまて
頭(アダマ)サ若布(ワガメ)コ生えだえンた爺媼(ジコババ)ばりウヂャウヂャてナ
ああ あの沖(オギ)バ跳(ハネ)る海豚(エルガ)だえンた倅等(ヘガレンド)ア
何処(ド)サ行(エ)たやだバ
路傍(ケドバタ)ネ捨(ナゲ)られでらのアみんな昔(ムガシ)の貝殻(ケカラ)だネ
魚(サガナ)の骨(トゲ)コア腐たて一本(エツポ)の樹コネだてなるやだナ
朝(アサマ)モ昼(スルマ)もたンだ濃霧(ガス)ばりかがて
晩(バゲ)ネなれば沖(オギ)で亡者(モンジャ)泣いでセ
ちょっと津軽弁が難し過ぎるのは、私らにもそうで、まるで津軽弁の古文体のような感じ
すらする。まあ要するに、いかに貧しく、わびしい風景であるかが伝わりさえすればそれで
いいだろう。
かくもさびれた光景は、電柱がコンクリート化し、家屋が少し新しくはなっていても、今も我
々の心に響いて泣き止まない。そこには日本の原初的な風景とでも呼ぶべきものがある。
決して観光化できず、せいぜい四五人の俳人が細々と通り過ぎるだけの寂しさが袰月に
は今もある。芭蕉こそ登場はしないが、なぜか子供のころには日常的であった日本がここ
にはある。
どこまでが袰月どこからが此岸 矢本 大雪
南瓜八つ明るい老婆となりにけり 徳才子青良
艶のある赤き腰巻案山子様 後藤 岑生
そこでは今も淡々と暮らしが営まれているのだが、それはひっそりとしていて、通りで出
会う人もごくまばらである。そのことが一層俳人の心を刺激してならないのだが、それはこ
の土地のせいではないのだ。それなのに、俳人とは業深き者。自分の生活とはかけ離れ
た異景を探し求め、他人の生活の中へと踏み込んでゆく。ごめんなさいと心で呟きながら、
なぜか懐かしさにとらわれてしまう。
袰月村は、正式には今別町袰月、袰月は、おそらくアイヌ語でポロ(大きい)トゥキ(酒椀)
陸奥湾が盃みたいに見えるところからついたと予測される(山田秀三著作集より)。青森市
の北辺から津軽半島の陸奥湾沿いを上磯と称し、どちらも何とも淋しい、そして味わいの
ある地名である。
対岸の蝦夷に手を振る芒原 後藤 岑生
ふのり枯れ袰月白い月の影 千葉 芳醇
冬近し袰月膝を抱き眠る 矢本 大雪
志士独活の海峡の姉が嫁にいく 徳才子青良
宿泊は元小学校を改装した「海峡の家」で、トイレ、風呂とも最新のもので、気持ちがい
い。ただ、食事は大きな台所を使っての自炊になる。それが楽しいのだが、弁当を頼むこ
ともできる。一人当たりの宿泊料は3,500円。他に炊事の使用料がかかるが、黒艦隊と
合同の吟行となれば、炊事は任せてほしい。全部でも一人6,000円程度で済む。今なら
新幹線の奥津軽今別駅が便利で、バスで送り迎えしてもらえる。吟行地は徒歩十分以内
に点在し、皆一か所で立ち止まって句作にいそしんだ。旅行客歓迎の観光地ではけっして
ないが、俳人の心には何かしみこむものがある。
貧しいだけならば、全国各地にそんな村は点在するが、対岸に見える下北とも違う、我々
蝦夷の血を引くものを揺り動かす何かがこの地にはあるようだ。ゆえに私はこの地を新た
な「俳枕」と呼びたい気がしてならないのである。
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