仮の世のまだ夢みたい干蒲団 沢木 美子
仮の世、つまり、この世を夢の世と見なす詩歌は古今数限りない。例えば、古今集
の〈世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ 詠み人知らず〉
や閑吟集の〈何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ〉、それに極めつけは平家
物語の(ただ春の夜の夢の如し)だろう。他にも枚挙にいとまがない。これらは、それ
ぞれ時代とその実感を伴っているが、根底には荘子の「胡蝶の夢」があると想定して
も、あながち的外れではなかろう。荘子のうちでも、殊に有名な部分で、夢の中で蝶
となった自分も目覚めた自分も紛れもなく自分であって、それらを相対化すること自
体意味のないことだという考えだ。「夢の世」という言葉自体、その混沌を混沌のまま
示している言葉だとも言えよう。
この句は、そのことを踏まえている。しかし、それゆえ、はかないとか、悲しいとかと
嘆いているのではない。開き直って「狂へ」と鼓舞している訳でもない。この世の喜怒
哀楽すべてを干蒲団の中に包み入れ、そして、命尽きるまで、この世を楽しもうと独
り言を言っているだけだ。干蒲団の何という温かさ。
忘年や牛のどこかを皿にのせ 布田三保子
焼肉屋での忘年会だろうか。次々に皿に載せられてカルビやタンやホルモンが運
ばれてくる。それは、そのまま旨そうな食材であるが、カルビやタンやハツと呼ばずに
「牛のどこか」と言われると、たちどころに何か異様な肉の塊に化してしまう。この句
の狙いもむろん、そこにある訳だ。そして、その異様さは、生き物自体の、かって生
きて動いていた一部が皿に載っていることへと意識を導く。さらには、その部分が牛
の何たるかを知ろうともせず、食欲に任せるだけで貪り喰っている自分たちの姿をも
網膜に映し出す。同じ物でも呼称一つで、その正体が現れたり隠れたりする。言葉は
つくづく怖いものだと知らされた一句だ。
電飾の不意の点灯開戦日 大久保和子
おそらくは仙台の光のページェントがモチーフだろう。今年の点灯式は12月9日だ
ったから、実際には開戦日の次の日であった。昭和61年、当時仙台砂漠と言われ
たタイヤの粉塵で汚れた欅を何とか輝させたいとの思いから始まった行事だそうだ。
リバーサイト市のイベントに触発されたとも聞く。欅の成長への影響や消費電力など
が心配されたが、欅には、さほどの大きな影響はないらしい。電力もバイオマス発電
によっているとのこと。よく配慮されているようだが、私のようなひねくれ者には、定禅
寺通りの暗い夜空に伸びる歳晩の欅の姿が妙に恋しくなるときがある。
句の鑑賞に戻ろう。「不意の」という言葉にこだわるなら、光のページェントよりも住
宅地での個人で楽しんでいるイルミネーションの方が相応しい。クリスマスへの雰囲
気を盛り上げる、ほのぼのとした灯のはずだが、開戦日と取り合わされることによっ
て、その光の平和的なイメージは不安や畏怖へと瞬時に異化する。そして、戦争とは
実はこうした安息そのもの中に突然やってくるのだという事実に向き合わされる。〈戦
争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉〉に通ずる発想だ。
骸にも溜まりを作る冬の雨 相原 光樹
戦場カメラマンと言えば、ロバート・キャパだが、この句のアングルは、同様の非情
さとそれゆえの訴えを伝えてくる。倒れた屍に降る雨が背中の窪みに溜まり、その雨
が肉体の起伏を浮き彫りにし、確かにさっきまで生きて動いていた人間の体であるこ
とを物語る。〈雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り 長谷川素逝〉を思い出した。
開戦日防毒マスクにも目鼻 増田 陽一
クリスマス商戦クリスマス停戦
さがあとり
白息や虜囚となりて見ゆるもの 村上 花牛