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 小熊座・月刊 
  


   2017 VOL.33  NO.383   俳句時評



      佐藤鬼房顕彰全国俳句大会シンポジウム
      「鬼房俳句の軽みについて」に寄せて



                              宇 井 十 間



   長距離寝台列車(ブルートレーン)のスパークを浴び長須鯨白(しろながす)          瀬頭

   綾取の橋が崩れる雪催                          何處へ

   海嶺はわが栖なり霜の聲                     霜の聲


  「軽み」とは「重くれ」の対語であり、現代俳句の表現はある意味でこの二つの極の間を

 揺れ動いているといえる。総じて言えば、俳句はその歴史を通じて重くれよりも軽みを指向

 する傾向があり、現在でもその傾向は大きくは変わっていない。思想的な重苦しさを排して

 日常の事柄を軽々と表現することにこそ俳句の本性を求めるべきであるという考えは、俳

 句史を通じて観察される。しかし、そもそも俳句の軽みとは何であるか。逆にいえば、俳句

 における重くれとは何であるか。また、軽みといえばそれは作り手にとっての軽みであり、

 作句が自在であることを指すのか、それとも、軽みとは読者にとってのそれか。何よりも、

 俳句はなぜ軽みを目指さなければならなかったのか。また、一方でなぜ重くれが必要であ

 ったのか。

  たとえば鬼房の「ブルートレーン」の句である。この句はどのような意味で軽みの句であ

 る(あるいはそうではない)といえるのか。夜の闇を走るブルートレインの行く先にシロナガ

 スクジラが一瞬照らし出される。まるで銀河鉄道の旅を思わせるようなシュールな表現で

 あるが、この句を鑑賞するには、通常の多くの俳句を読むときとは違うある種の想像力が

 要求される。言いかえると、通常の場合俳句に期待されるある種の日常性への信頼が、こ

 こにはない。軽みを読みの平易さ(ないし自動性)と理解するとすれば、ブルートレインの句

 (また鬼房の代表句の多く)はそうした平易さの対局にある。しかし、書かれた内容につい

 て考えるなら、実際にはこの句を書いた作者の意識は、むしろ軽やかで自在であるともい

 える。さらに、技術的な面からいうと、この句には明らかな欠点がある。 (おそらくは意識

 的に)俳句的な韻律を破っているので、読みにくく、一読して意味がとりづらい。そもそも字

 数が多く、読んでて疲れる。それらの欠点を含めて、重くれた句と理解することもできるだ

 ろう。

  いずれにしろ鬼房の句には、総じて、安易な理解や共感を拒むような重くれの感覚が顕

 著である。現在まで活躍してきた多くの俳人にとって俳句の俳句らしさがその軽みにあった

 とすれば、鬼房の俳句はそうした俳句らしさを意識的に拒否することで成立している面が

 確かにある。「ブルートレーン」の句は鬼房にしてはむしろ軽やかな句である。


   綾取の橋が崩れる雪催

   海嶺はわが栖なり霜の聲


  まったく傾向のちがうこの二句をならべてみると、そこには共通項がみえる。「綾取」は表

 面上比較的平易な句であり、読者は深く考えることなくその情景を思い浮かべることができ

 る。対して、「海嶺」はあまり平易ではない。この句の場合、「わが」を鬼房本人と解釈する

 か、なにか得体のしれない生き物と解釈するかで句意が大きくかわる。鬼房の他の句との

 関連でいうなら、より魅力的なのは後者の解釈であろう。だとすれば、これは重くれた句と

 いうことになる。しかし、実は「綾取」の句も単純に軽みの句ではない。「崩れる」という語が

 もたらす異様な感覚が一見平易なこの句にまるでアポカリプスのような印象を与えてい

 る。「雪催」という季語の効果も絶妙である。綾取りという題材によって通常連想されるよう

 な日常性への信頼がここにはない。両者に共通しているのは、表現という行為そのものへ

 の懐疑である。語らえざるなにか、表現し得ないなにかを意識しつつ、その上で表現を

 継続するなら、そのとき表現される文体は俳句における軽みとは大きく異なるものになるだ

 ろう。逆にいえば、俳句が軽みをめざし、軽みとして定義されるときに、そのような表現行

 為そのものへの懐疑は意図的に排除されてしまうことになる。鬼房が抗したのはそのよう

 な隠蔽そのものであったろう。現代俳句の歴史とは、一面でそのような二つの表現行為の

 せめぎあいであったはずである。


   雁がねと入れ替わるまた堕ちてゆく                    矢本 大雪

   猫じゃらし何かを数え指尽きる


  『黒艦隊』第125号に発表された16句から引いた。というより厳密には、私は知人を介し

 てこれらの句を知らされた。周知のとおり、大雪氏は青森の俳人であり、独特の作風には

 鬼房とは共通点も観察される。私は長く鬼房俳句大会のシンポジウムでもご一緒させてい

 ただいた。前出の鬼房の三句と同様に、これらも重くれた句ということになるだろう。無口な

 人柄は、これらの句にもあらわれている。

  ところで、いまからふりかえってみると、震災のときに作られた震災句の多くは、私にとっ

 てはむしろ軽い。なぜならそれらの多くは、実は俳句的な日常と密接に関連していたように

 思えるからであり、しかも、そのような日常への信頼とともにしばしば成立しているからであ

 る。端的にいえば、それらは共感を求める傾向が顕著である。ここでも、俳句史における

 二つの可能性とそのせめぎあいはたしかに観察される。しかも、どちらが多数をしめてきた

 かは一目瞭然なのである。私は、そのように形成されたいわゆる「俳句」には関心がない。




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