2017 VOL.33 NO.387 俳句時評
俳句のテーマ詠(時事詠)の深化を願って
武 良 竜 彦
俳句は時事詠には向かないと永い間信じられてきた。東日本大震災が起きたときも、俳
句で震災を詠む俳人は少ないだろうと思われていた。だがその予想は外れ、その年の俳
句総合誌では震災特集が組まれ、結社誌、同人誌、有力新聞や地方紙の読者詠欄にも
「震災詠」が溢れた。
この予想外の出来事が、俳句界の時事詠に対する意識の一大転換を齎した。では、何
故、それまで俳句は時事詠には向かないと思われていたのか。そして何故、大震災時、一
種の時事詠でもある震災詠が多数生まれたのか。
俳句の短さを克服して多様で奥深い表現をする手法として、作者の思い(文学的主題)を
直接的に述べず、場と物や事の描写的表現だけにする「省略」と、象徴的な「喩」の働きで
「文学的主題」の読み取りを読者の想像力に委ねるという手法がある。この「省略」と「喩」
の手法を使い熟すには、一定の技術的な修練を必要とする。この二つの手法を大切にす
るところから、俳句では散文的な直接的に「意味」を「説明」する表現は、拙い詠み方だとい
う不文律のような意識が根強く存在する。
時事詠はその時の時事用語とその意味を取り込んで成立させる側面が強いので、表現
が直接的な主義主張の言葉の意味作用に捉われ、一元的で狭くなり、結果として俳句と
して拙い、つまり表現の質の劣化、低下を齎すものとして、敬遠、忌避されてきた。(時事
詠自身を明確に排除する伝統俳句派、つまり花鳥風詠派の作法もあるが、それについて
は本稿の埒外のことなので、ここでは除外する)
東日本大震災と原発事故という強烈な体験が、そんな俳人たちの表現における「矜持」
のようなものさえ木端微塵に粉砕してしまい、何か表現しなければという一時的な熱狂に突
き動かされて、多数の俳人たちが、無自覚に時事詠に手を染め、素人まがいの震災詠を
乱作して憚らなかった(少数派だが矜持を守り震災詠をしなかった俳人もいた)……と批判
する者もいた(かく言う私もその一人だ)が、その批判の在り方も、多くの俳人と同じように
一時的な逆「熱狂」の中にいたのだということが、年月の経過によって自覚されてくる。
私たちはあの後、新しい発見をしたのである。夥しく発表された震災詠の中には、表現の
質を落とすことなく、俳人としての矜持を守りつつも、これまで見たこともない種類の表現が
実現されていることを、目撃したのだ。時事詠は俳句の質を落とすという長い間の「迷信」
が打ち砕かれた、俳句史上画期的な事件を、俳句界は体験した。俳句で時事詠がなされ
てこなかったのは、その分野に果敢に挑戦しようとしてこなかっただけだったということが、
明白になった事件だった。やれば出来るのだ、そう信じることができる方向への意識の大
転換を迫られた事件だったのだ。
俳句界はまだ時事詠を忌避する伝統俳句派が多数生き延びている世界なので、時事、
つまり社会的なことに無関心な、没社会的なジャンルだと、永い間、他のジャンル(短歌、
詩、純文学界)から見られてきた長い歴史がある。
だが(戦前、戦中に弾圧を受けて挫折した時期もあるが)現代俳句派は、積極的に社会
を詠もうと努力してきた。散文的な「意味」的主義主張の表明に了る、俳句表現として質の
劣化だけは避けようと努力してきた。その努力の中心的な課題が、俳人としてその「矜持」
を守ることだったのである。時事詠という言葉に抵抗があるなら、「テーマ詠」と呼び換えて
もいいだろう。
今年の五月にコールサック社から刊行された『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩歌集』の
ように、憲法という題材で俳句を詠むことは、一つのテーマ詠(時事詠)である。
最初は詩だけによる企画だったが、短歌と俳句の寄稿を呼びかけて実現した詩歌集で
ある。編集部選句と、自主寄稿の一人二十句または四十句を収録している。その俳句作
品を鑑賞すれば、本稿で述べた、俳句界の意識の変遷、そして俳人としての「矜持」との格
闘の姿が読み取れる。
テーマに沿って日本国憲法の理念を表現するに当たっても、俳人たちはそのことを直接
的に表現することは決してしない。そんなスローガン化した底の浅い直接的な主張の言語
表現を最も厭うからだ。その歴史的、心理的背景はすでに述べた通りである。
俳句という言語芸術は極力言葉を「省略」し、「喩」を使い熟して、自分の主張である「文
学的主題」を、読者の想像力に委ねて表現をする世界である。そんな表現を成立させるた
めには、俳人一人ひとりが、そのテーマに対する自分独自の視座を確立し、そこから啓け
る未だ誰も見たことがない「景」、つまり独自の思想的な地平が、視えていなければならな
い。以下、独断だが一人一句を揚げる。
戦さあるな人喰い鮫の宴あるな 金子 兜太
ふたたびを俺達は死ぬ虎落笛 鈴木六林男
ひでり野にたやすく友を焼く炎 佐藤 鬼房
始めより我らは棄民青やませ 高野ムツオ
蘆の絮飛びひとつの民話ほろびかね 能村登四郎
語ること供養となりぬ冬オリオン 能村 研三
月の谺 帰らない生者 帰る死者 宗 左近
白芒瓦礫にまたも戻る吾れ 齋藤 愼爾
それからの幾夜氷の神殿F 永瀬 十悟
手探りで虹を殺した少年兵 平敷 武蕉
子羊を是とし見殺す主の祭 松浦 敬親
乖離する民のいのちや冴え返る 吉平たもつ
われわれの旗は白地に後の月 春日 石疼
列島や胎児のかたちして凍る 大河原政夫
なによりもツクシは個である土俵際 宮崎 干呂
骨はつひに土に還らず群すすき 井口 時男
いずれも独自の「景」が切り拓かれて詠まれている。積み残した課題があるとしたら、主
題にまだ偏りがあることだ。「憲法の理念」からもっと多様な文学的主題を紡ぎ出せるはず
だ。ともあれ、俳句の時事詠への果敢な挑戦と、その主題詠の多用化と深化は奨励されて
しかるべきだろう。
(「コールサック」91号の「書評」より転載。一部改稿)
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