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 小熊座・月刊 
 


   鬼房の秀作を読む (83)      2017.vol.33 no.387



         頬杖を解く冬至粥食はんため          鬼房

                                   『鳥食』 (昭和五十二年刊)


  反故原稿をさりさりと裂き、千切り、ひとひら又ひとひらと口に入れる。味を確かめるよう

 にゆっくりと咀嚼する。人目に晒されぬままに思惟や詩韻が身体の奥深く還ってゆく。やが

 てそれは血肉となり熱量に変換される、

  佐藤鬼房を憶うとき、そんな映像が現れる。

  掲句は句集『鳥食』所収。訝しいほど平明な一句だ。ものを食う為に思索を断つ鬼房。そ

 こに生活者としての顔を垣間見るという解釈は私には困難だ。食うならば若い者の精気か

 反故、或いは霞。多分、鬼房の壮年期を含めて実像を識らず、作品と風貌に幻惑されてい

 るからだと思われるが、黄泉の人となった今はなおさら幻想こそが実像に思える。が、さて

 集名鳥食とは下衆・乞食の意。自らを賤しき者と後書きに記してあるのを見れば漸く生身

 が仄見えてくる。プロレタリアートにありがちな特権意識、自己陶酔とまでは言えないが、そ

 れを盾とも支えともしていた生身だ。寒気の重労働を終えて己自身に帰り着く。頬杖は内

 省の象徴かもしれない。不条理、宿命、微温の家庭、かつ文学。しかし生身は止みがたく

 腹が減る。つつましく盛られた冬至粥。小豆がぽつぽつと混じる粥。それは微光を纏ってい

 たことだろう。

  が、冬至粥が可視化できることで一層立ち現れるのは深い深い虚だ。

                                       (小川真理子「梟」)



  冬至に南瓜を食べることはよく知られているが、年代や地域差があるためか私には「冬

 至粥」は馴染みがない。粥を食べる風習といえば、七草のイメージである。歳時記によれ

 ば、冬至粥には「赤豆」が入っているらしい。南瓜の煮ものにも栄養価の高い小豆が一緒

 に入っているものがあるので体には良さそうである。何より、生命力が一番弱る時期に、息

 災と厄除けの願いを込めて食べる粥ということで、掲句からは揺るぎない実景が浮かんで

 くる。

  頰杖の姿がすっと馴染むのは、鬼房という少し気むずかしい印象のある人物の仕種とし

 て違和感がないからだろう。私は写真や話の中での鬼房しか知らないが、この時はきっ

 と何か大事なこと、たとえば俳句や詩の世界などについて考えていたのだろうと思う。もう

 暫くこのまま頰杖をついて思案していたいのだが、冬至粥を食べて糧とすることはそれ以

 上に大事なことなのでやむを得ない……という冬至粥への信頼のような思い入れとジレン

 マが伝わってくる。

  私の好きな鬼房の句に 〈蟹と老人詩は毒を持て創るべし〉 があるが、この句の〈毒を

 持て〉という表現にはいい意味で虚のイメージが強い。それとは対照的に実を詠う冬至粥

 の句こそが、鬼房の詩性に対する活力の源なのではないだろうか。今年の冬至には、掲

 句を思い出しながら冬至粥を食べて鬼房のことを偲びたい。

                                              (一関なつみ)





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