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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (85) 2017.vol.33 no.389
夏病みの狼となり夜を尿る 鬼房
『名もなき日夜』(昭和二十六年刊)
新聞社で校閲の担当をしていた折、選者の鬼房先生に話を伺ったことがある。投句にあ
った「デカンショ時代」の表記を聞きたかったのだが、どういう流れだったか「終戦直後はサ
ルトルの実存論議を齧った」と話してくれた。
後年、学芸部で戦争体験の声を集めたことがある。その中で先生のような従軍体験者の
声に共通性が見えた。
「それまでの国家社会的な体制と思想の崩壊の中、疎外・圧迫されてきた個体としての
自己を取り戻し、虚無的な崩壊感覚に襲われながらも真実の自己存在を打ちたてる必要
に迫られた。また、戦争の諸体験を潜ってきた中、自らの人間存在の価値を改めて究明
せざるを得なかった」
これは集めた声の底流、つまり戦後精神の深部から汲み取った抽象的な把握になるの
だが、ここには実存主義との共鳴や関心に向かう心理的与件が見えているように思う。
掲句は、昭和21年5月、病院船で名古屋上陸、復員。名古屋・静岡・仙台の病院を経て
帰郷した二十七歳の作。
敗戦は全てを壊し疑問に晒した。誰もが何らかの傷を負いながら混乱の中で自分の決
断を頼りに生きていた。言うなれば全員が《実存主義者》だったのだ。先生もしかり。病を
抱えての復員。死の恐怖と向き合った自己の心体を確認するような句だ。狼としたのは忍
従の北方型の血がそうさせたのだ。この年、大いなる決断で結婚されている。
(石母田星人「滝」「俳句スクエア」)
観念的な言葉はなく、句跨りもせず、上句中句下句がきれいに分かれ一見平易に思わ
れるが、若書きといえど鬼房である。言葉と言葉はぶつかり合い、句と句は矛盾対立して
ダイナミックである。まずは上句、「夏」と「病」が直に連結し、既成の季語「夏瘦」を退けて
今だに新しい。そんな生温い情況ではない、という声がきこえる。その「夏病みの」は、カタ
チの上では中句の「狼」を修飾するのだが、内実は否定する。本来この動物は、冬の山野
にあって絶えず餓え、眼光鋭く鹿などを求め跋渉してこそ生き生きする。冬毛がぬけ見た
目みすぼらしい夏は合わない。その上何やら病まで背負いこんで……。
いうまでもなくこの否定された「狼」は若き日の鬼房自身である。この手負いの狼は、さら
に汚らしく貶められる。それが下句「夜を尿る」の表出である。そこまで描かなくともと人は
思う。何という自虐。ところでニホンオオカミはとうの昔、絶滅している。幻想の狼、観念と
化した狼にこの世のリアリティをもたらすために、下句の「尿」はあった。否定され、貶めら
れた「狼」は消え入るどころか句の中心に鎮座して聖化されたと思われる。この作の数句う
しろに「夏草に糞まるここに家たてんか」が置かれている。糞尿をまき散らし高天原を追放
された素戔嗚尊を、明らかに意識していよう。昭和21年夏、病院船で復員した折の作。
(我妻 民雄)
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