2018 VOL.34 NO.393 俳句時評
原点が存在する―俳句表現論争史から ②
武 良 竜 彦
★桑原論考に対する俳句界の反応の検証
前回、桑原武夫の「第二芸術―現代俳句について」の問題点の考察を行った。今回はそ
の桑原論考に対する当時の俳句界の反応を概観し、その問題的について考えたい。
概括すると大方は次のような反応だったようだ。
反近代的な姿勢の虚子は「なんら動揺することはなかった」という。桑原論についての
「俳句は(第二ではあっても)ついに芸術になりましたか」という呟き的言辞自身に反近代
的揶揄と逃げの姿勢が伺える。その幻惑的揶揄ぶりに超俗の趣をみて喝采を送る向き
もあるようだが、戦時中に戦争の現場に思いを馳せて俳句を詠んだ俳人たちに比べて、
戦争さえ季語的風物のように詠む伝統俳句派の相も変らぬ姿勢は改めて論評するに当た
らない。
俳句評論家の山本健吉は桑原論に賛同し、「滑稽精神」を改めて強調する原点回帰的
論を展開している。(「現代俳句」昭和22年4月号)この回帰論には賛否があるだろう。
俳句内俳句論的な正論でもって桑原を批判したのは富澤赤黄男だけだった。その主旨
は「短詩型の不自由は暗示と象徴によって超克される」というもの(『現代俳句の為に』)で
あり、それは前回、私が述べた視点の一部と重なる。惜しむらくは現在にも続く俳句評論
に見かける特徴と同様、汎文学論的ではなく「俳句内俳句論」に留まっていることだ。それ
では本質的な文学表現論にはなり得ない。
『現代俳句の為に 第二芸術論への反撃』を書いた山口誓子に代表されるように、大半
は、俳句は近代文学足り得るとして反発したが、その論点は文学論というより主観的な精
神論にしか感じられない。そんな中で実作において文学的で尖鋭的だったのは、大正後期
生まれの「新世代」である鈴木六林男や金子兜太だった。だが、現在からの視点では、そ
こにも時代的なパラダイムの限界を感じてしまうのは、文学足り得ようと意思した結果、殊
更のような「社会性」の強調に傾斜していったことだ。その時期にはそのことへの自覚はな
かっただろう。やがて熱が冷めるように「社会性」は唱えられなくなり、各自が独自の文学
的主題の創造へ向かっていった。その経緯を見れば解るように、それは時代的な精神的
拘束の表れであったことは明白である。
そこに欠落していたものは何か。
それは汎文学論的にいえば、その時代を生きつつも普遍性のある文学的主題を、表現
者としての主体性を懸けて創造するという文学的営為の中で、「社会性」とは、文学的主題
ではなく、文学的な一つの題材に過ぎないという自覚である。「社会性」という文学的題材
の一つが、唯一の文学的主題であるかのように混同されていた。
ここで文学的主題という言葉について定義しておこう。
文学的主題とは、それを表現した文学的主体である 「作者」 (生身の作者とは別もの)
が、その作品で伝えようとするもっとも大切な主題(意図)と、それも一つの主題として、読
者がそのときの精神的主体性をかけてその作品から読み取る「何か」の総称である。
例えば夏目漱石が 『三四郎』 や 『こころ』 『それから』 『門』 を書いたとき、漱石には自
分なりの明確な文学的主題が自覚されていただろう。読者はそこに明治期の青年の精神
的戸惑いと成長、急速に近代化し混迷する社会の中で自己を捉えかねている若者、若い
夫婦の姿や、それ以外の主題をそれぞれに受け取るだろう。その総称が文学的主題とい
うものだ。同じように俳句では、例えば
暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
という俳句の場合、六林男には自分なりの、その文学的主題が自覚されていたかも知れな
い。この俳句に出会った読者は、何等かの困難な状況の中でもがいている過酷な生の実
感を受け取るかも知れない。六林男が生きた戦後の混迷する時代背景に思いを馳せて、
スローガン的言語が渦巻く中で、言葉を使った俳句という表現に携わり、言葉と真摯に向
かい合っている自分が、それら外的同調圧力で迫る軽薄な指示表出語群に惑わされるこ
となく、自己を見失わないようにしようという強靭な意志を読み取るかも知れない。
そうして、作者の主体性と読者の主体性が、その作品をめぐって精神的活動を営んだ結
果、その心で掴みとることの総称が文学的主題というものだ。文学作品を評価する場合、
俳句、短歌、詩、小説に至るすべての文学作品が表現し得ている、文学的主題の普遍性
や可能性について論評されるべきである。また作品評価もその視座で行うのが文学論と
いうものだ。そういう意味で桑原論はお話にもならない。
文学作品において、その作品を描くのに用いられた時代背景、そのときの登場人物たち
の屈託、小説なら筋立て、俳句なら造形的に描出された「場面」や「物」などが、表現の目
的ではない。それらを駆使して表現された作品が獲得した象徴的で普遍的な何かが、文学
的主題というものであり、そこに文学の可能性と不可能性のすべてがある。
この時期の代表的な俳人たちの作品を以下に揚げる。
これらの作品が当時掲げられた「社会性」というお題目を越えて、普遍的な独自の文学
的主題を獲得し得ているか、またその可能性があるかという視座で、再評価を試みてみ
よう。そうすれば、桑原が真に批評すべきであったことの本質が、今の私たちの問題として
感じられる筈である。
何がここにこの孤児を置く秋の風 加藤 楸邨
終点の線路がふっと無いところ 渡辺 白泉
水脈の果て炎天の墓碑置きて去る 金子 兜太
傷まだいたむかな 風の中の落日 富澤赤黄男
戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ 原子 公平
夏草に糞まるここに家たてんか 佐藤 鬼房
母なくて夜々の温石妻も抱く 細谷 源二
白露や死んでゆく日も帯締めて 三橋 鷹女
罌粟ひらく髪の先まで寂しいとき 橋本多佳子
おそるべき君等の乳房夏来る 西東 三鬼
わが女冬機関車へ声あげて 鈴木六林男
朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田 耕衣
海に出て木枯帰るところなし 山口 誓子
空は太初の青さ妻より林檎うく 中村草田男
(この稿、続く。但し次回は東日本大震災をテーマに)
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