|
小熊座・月刊
|
鬼房の秀作を読む (90) 2018.vol.34 no.394
狼星が盗汗の胸にはりついて 鬼房
『瀬 頭』(平成四年刊)
この句を目にしてすぐ、啄木の「呼吸すれば、/胸の中にて鳴る音あり。/凩よりもさび
しきその音!」を想起した。両者に共通する床に臥す姿勢と運命への思い。ただし、命運
尽きた生身の嘆きの旋律は鬼房句にはなく、そこにあるのは運命に己の存在を刻印しよ
うとする覚悟である。
「劇的な夢に驚き目を覚ます。寝汗でシャツの胸元が濡れている。目を凝らす闇に冬の
夜空が降りてきて、ひときわ我が身を照らす星がある。それは私の運命の星、狼星。青
白い光を抱き取るように胸に手を当て目をつぶる。ひそかに打つのは生涯という時計の針
音?神が弾く算盤の音?」
寝汗と言わず「盗汗」を用いたのは、「狼」の漢字との響き合いを意識したものだろうか。
拭えぬ罪の意識と共にストイックに生きてきた人生をそこに思う。
天刑や日夜名もなき北の声 『名もなき日夜』
蝦夷の裔にて木枯をふりかぶる 『地楡』
無名ゆえに滅びず「消せぬ詩」を成し得る人々の側を、鬼房先生はいつも歩んで来られ
たと思う。蝦夷の魂の火は引き継がれ、木枯などに吹き消されはしない。「狼星」の句もま
た、宇宙との交感という魂の躍動を潜め、静かに張りつめている。平成六年八月末、現俳
協青年部の集まりで鬼房先生に初めてお目にかかった。痩身に似合わぬ、厚くて温かな
掌。先生の包容力を直感した瞬間でもあった。
(鈴木 修一 「海程」 )
昨夜から雪が降り続いている。時々凄まじい風が吹き、雪が舞い荒れ狂っている。爆弾
低気圧が北海道の沖に居座っているからだ。風が止んだときを見計らって、雪掻きをする
が、またすぐに五センチ十センチと積もってくる。それでも雪が止み、雪雲の隙間から星が
覗いているとホッとする。凛とした星の光に希望を感じるからである。
狼星は、シリウス―天狼星のことである。冬の夜空の南に青白く輝く大きな星である。寝
苦しい悪夢の中なのか。それとも、体調による盗汗なのか。夜具が重苦しく体にへばりつ
いている。窓から空を見上げるとシリウスが輝いている。その光が作者に届いたのだろう。
届いた光が、汗や夜具のように体から離れない。その感覚が「盗汗の胸にはりついて」な
のだろう。内臓の切除を繰り返した後の鬼房にその星の光はどう見えたのか。「私はまだ
毅然と輝いている」と、言いたかったのではないだろうか。そして「狼」の字から鋭い眼の輝
きをも失っていないと。盗汗の重々しい粘着性と狼星の組み合わせも面白い。
青星や復讎の文字吾に無し 『瀬頭』
同じシリウスを詠んだ句であるが、清々しく潔い句である。漢字の違いでこんなにもイメー
ジが異なるものなのか。
いまでもシリウスを眺める鬼房が、どこかにいるのではないだろうか。
(鎌倉 道彦)
|
|
|