2018 VOL.34 NO.397 俳句時評
兜太・あきら亡き後の文学的課題
武 良 竜 彦
大峯あきら氏が2018年1月30日に亡くなった。
2月の石牟礼道子、金子兜太に続き、この時評で追悼文を連続で書くことになった。大峯
氏のご冥福を祈ります。
大峯氏は浄土真宗の僧侶で、哲学者としても大阪大教授、龍谷大教授などを務めた。
同人誌「晨」の代表同人で、2003年に俳人協会賞、2011年に毎日芸術賞と詩歌文学館
賞、2015年に蛇笏賞を受賞している人だ。学者としての専攻は宗教哲学。中期フィヒテ研
究・西田幾多郎研究で知られている。「人間だけでなく、世界の中のすべての物がその中
にある『季節』とは、われわれ自身をも貫いている推移と循環のリズムのことである」(「季
節のコスモロジー」『懐徳』号から要約)とし、その視座から作句を続けた人である。この言
葉からして宗教的、哲学的である。「造形の兜太」に対して「諷詠のあきら」と呼ばれるが、
いわゆる伝統俳句派の諷詠より詠んでいる世界が深淵である。伝統俳句派は自然を外か
ら眺めているようなところがあるが、大峯氏の俳句思想は、自然は自分の内側にも外側に
もあり、共に「推移し循環している」という視座が明確に違う。その違いが次の俳句にも表
れている。
いつまでも花のうしろにある日かな
季節や月日は流れ去らない。循環している。循環は流動ではなく、定まり在るということ
だ。その確かな存在感の背後に大きな世界が流転循環している。そんな深い思想がなけ
れば詠めない句だろう。次の句にもそれが覗える。
麦熟れて太平洋の鳴りわたる
人は死に竹は皮脱ぐまひるかな
まだ若きこの惑星に南瓜咲く
日輪の燃ゆる音ある蕨かな
草枯れて地球あまねく日が当たり
大峯氏は十代始めに、故郷の𠮷野で圧倒的な星空を見て、めまいのような感覚に襲わ
れ、「あの星空と自分とはどんな関係にあるのかなど、そんな感受性がどういうわけかや
って来た」という。そのずっと後になって、それが次の名句になったという。
虫の夜の星空に浮く地球かな
大峯氏と言えば、忘れられないのが金子兜太氏との対談の記事のことだ。総合誌 「俳
句」の2016年7月号の、《特別対談「存在者」をめぐって―それぞれの俳句観》という特集
記事である。対談の主眼は、二人の俳句観の中の「存在」と「存在者」についてだった。二
人は自分を包む自然や宇宙という大きな世界から俳句を捉えようとするようになったという
点で共通していることが確認されていた。話の中で「アニミズム」という言葉が説明抜きで
キーワードのように使われていて、それには少し違和感があった。
話はそこから東日本大震災の震災詠にも及び、大峯氏が震災詠を一句しか詠まなかっ
た真意を知りたいと、金子氏が問うことから震災詠の話に入っている。大峯氏の震災詠
の一句というのが次の作品である。
はかりなき事もたらしぬ春の海
このたった一句を巡る兜太氏との対話は次の通り。
大峯 結局、僕のその句はつまらんということですか。
金子 甘い。謳い文句だ。あの事件に対する誠意がない。俺はそう受け取る。一人の
学者と言わず僧侶と言わず、作者、俳人、ものを作る人間、ものを考える人間
があの大事件に対してこの程度の一句で止めたということが本心かどうか聞き
たい。(略)あんたはこういう時に、嘆く句、励ます句を必ず作る人だと思ってい
た。これはあなたにしては珍しいことだ。(略)
大峯 春の海はのどかというようなものじゃないですね。「こんなことはあるべからざる
ことだ」と思わせることを人間にもたらしながら、少しもそんな恐ろしい顔をして
いない。春の海は底知れないものだ、ということを言いたかったわけです。我々
の不幸を全然問題にしないような薄情な海だとか、荒れ狂う海だとか、それは
人間の計らいです。人知を超えたものが我々を生かしているんじゃないか。そ
ういう気持ちが僕には今も退かない(略)
大峯氏の、自分には震災詠は詠めない、詠んだとしてもこういう観点でしか詠まないとい
う主張は尊重すべき作句態度ではある。その心理には当時、俳句界に溢れた詠嘆調の底
の浅い励まし句を詠むことへの違和感があっただろう。大峯氏の宇宙的存在感から発す
る「詠嘆」は、それら類型的「詠嘆」とはちょっと種類が違う。
一方それを「駄作」と断言して批判する兜太氏の主張は、「悼んで作る、悲しんで作る、励
まして作るということがあってもいいじゃないか」というものだが、広い意味で悼みや励まし
の俳句も、一種の詠嘆表現であることに変わりはない。詠嘆や悼みや励ましは通俗小説
や流行歌や大衆俳句が受け持つ分野であり、消費されたらすぐ揮発してしまう、非文学的
泡沫言語表現である。(外国にはない国民的広がりを持つ大衆俳句文化は是とするが、政
治的に利用され戦争賛美一色となった歴史的瑕疵を忘れてはならない)
その自覚をもって俳人各自が、大震災体験を深く内面化して、独自の文学的主題を今、
確立しようとしている。
大峯氏は宇宙的存在観、金子氏は社会との接点を希求する視点という、予め作者に用
意された観点から震災を「語って」いるだけに見えた。この戦中派の二人の巨匠は、平成と
いう見せかけの「平和」のただ中で起きた大震災の本質に、俳句表現者として対応できて
いないのだということが感じられた。そこに欠けているのは、戦争、生命、宇宙などという
「大きな物語」ではなく、平穏な日常を切り裂く天災や、不条理な人災、社会的課題に直面
したとき、俳句に何ができるかという文学的な問いへの対応である。
戦後生まれで昭和の後半と平成のすべてを生きてきた世代の、後に各賞を得ることにな
る俳人たちの句集には、それ以前になかった震災後俳句の、新しい地平が切り拓かれて
いる。紙面が尽きたので例句を揚げることはできないが、その果敢な試みはこのような二
大巨匠たちが亡くなった後も、そして昭和の後始末的時間であった平成が終焉を迎えた後
も続く、俳句界の明日を切り拓く魁となるだろう。
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