小 熊 座 2018/6   №397 小熊座の好句
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    2018/6   №397 小熊座の好句  高野ムツオ



    血の管の籠なり人もうぐひすも      増田 陽一

  子どもの頃、病院の待合室に人体の内臓図が掲げられていた。凹凸があって、さ

 まざまな臓器の様子が一目できるようになっていたのを、よく覚えている。血管らしき

 ものも描かれていた。近年はさまざまな血管撮影法が開発されてCTやMRIなどによ

 って三次元の血管画像もたやすく作成できるようになった。それらを利用して描かれ

 た血管画もある。毛細血管は全身の血管の九十九パーセントを占めるという。それ

 を可視化した図を見ると、かなり細密で精巧な、まさに籠のようだ。その中を血が巡

 って生命を守っている。この句は、そうした人体を鶯と並べている。そのことが想像力

 を刺激する。鶯の体も同様に血管が籠をなしているが、皮膚も羽毛も同じく籠の役目

 を果たしている。鶯はさらに藪という大きな籠に守られている。さらにズームアウトす

 ると、地球を覆う空気もまたすべての生命を守る籠であるということに気づかせてくれ

 る。

    さくらさくら家にもありぬ青春期      草野志津久

    さくらさくら廃校にある百柱         高橋  薫


  この上五の「さくらさくら」という表現は、近年、よく見かける。

  震災直後「さくらさくらさくらさくら万の死者」という句を日経新聞俳壇で黒田杏子が

 取り上げ話題になった。作者は大船渡の桃心地という人。石牟礼道子の「さくらさくら

 わが不知火はひかり凪」はそれより三十年以上前の句。「さくら」の仮名書きにこだわ

 れば高屋窓秋の「ちるさくら海あをければ海へ散る」はさらに遡る。幾度も用いられ

 ながら、言葉がさらに磨かれ深まってゆく好例といっていい。むろん、安易な多用は

 避けるべきだろう。掲句二句には、この表現の他にも共通点がある。どちらも建物を

 素材としているところ、そして、そこに積み重ねられた時空を詠っている点である。前

 句は、結婚後の夫婦の住まいとしての家。家が建って二十年過ぎた時には、夫婦の

 子どもも二十歳を迎えていたかも知れない。家と夫婦とはともに同じ時間を共有して

 きた。後句は骨組として校舎を支えてきた柱達へ眼を向けたもの。一柱、一柱にそこ

 で過ごした子供達の歳月が刻まれている。「柱」という数え方は、その柱の一本一本

 が今は亡骸となって存在しているようにも想像させる。「柱」は墓碑や霊魂の単位でも

 あるからだ。どちらの句も「さくらさくら」の繰り返しが余韻を伝える。

    海光のかすかに届き地虫出づ       小笠原弘子

 も印象鮮明。「地虫出づ」は時候の「啓蟄」から派生した季語だが、地虫そのものの

 動きが見えてくる。俳句は、映像、イメージの文学であることを改めて納得させてくれ

 る。

    水草生ふ被曝史のまだ一頁        大河原政夫

 は怖い予言の作。いや単なる予言ではなく、すでに始まっている事実だから、怖いの

 だ。つい先日、柳田邦男との対談でアーサー・ビナードが「地震は現在を、津波は過

 去と現在を、そして、原発事故は過去と現在と未来を滅ぼす」と語っていた。

    石子詰の石の重さや青楓          𠮷野 秀彦

  石子詰は刑罰の一つ。穴に人を生きたまま埋め周りに小石を入れて圧殺する。春

 日野の鹿殺しの犯人が興福寺で石子詰にされた話はよく知られている。その石の重

 さは亡くなった人にしか解らない。残酷な刑罰は今もこの世界に残っている。楓の若

 葉が痛々しい。

    本所より我につきくる紋白蝶         あべあつこ

  七不思議の本場、本所ならでは。送り拍子木の音ではなく蝶が憑いてくる。しかも、

 こちらは真昼である。






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