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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (93) 2018.vol.34 no.397
八月の雨の肋を探り居る 鬼房
『鳥食』(昭和五十二年刊)
八月の雨。激しい夕立。うす暗がりの中のごつごつしたあばら骨は人のいのち、魂のメタ
ファーだ。…と書き出したが、私は別に社会的リアリズムがどうこうと言うわけではなくて、
長渕剛の「八月の雨の日」を思い出してしまうのである。「言葉が止まる 突き刺す雨 心と
心がひきさかれてゆく」、問わず語りの切なさよ。
モノクロームの世界。二人でどしゃぶりの中を走って雨宿り。濡れてしまった服を乾かし
ながら、お互い恥ずかしくて視線を合わせられない。ドキドキしながら君のあばらに手を伸
ばす……。これ以上は私の品格が疑われるので書かない。だがちょっと切なく甘酸っぱい
記憶は、八月が来るたび、そして雨が降るたび思い出す。ごつごつしたあばらの辺りにあ
の日あの時の感触を探りながら、ぼうっと恋を考えるのだ。
いや、そんな句ではないという反論もあろう。しかし私はこの句の背景を知らない不勉強
を棚に上げてこう言いたい。掲句は読みが一つに定まる句ではなく、読者の心の鏡に応じ
て異なるイメージを持つ句なのだと。八月の雨には、百人百様に思い浮かべる情景があろ
う。ある人には家事の一コマかもしれないし、ある人には労働かもしれない。私はここまで
書いて、自分がとんだ恋愛脳だったことに気づき驚愕している。
(浅川 芳直「駒草」)
掲句を読んで、まず頭に浮かんだのは、歌川広重の名所江戸百景『大橋のあたけの夕
立』。夕立が出し抜けに襲ったのか、突然の風を伴った激しいにわか雨。激しく音を立てて
降る雨。ものの輪郭や色彩が見えてくる。雨によってすべてが色鮮やかになる。濡れること
で蘇るという再生の感覚が際立つように思えてくる。
上五に置かれた八月の文字は胸を騒がせ、象徴するあらゆるものに反応する。戦場に
散った戦友の魂。生者と死者の集合。広重が切り取った一瞬も、鬼房の一句も、日常の中
に襲った非日常の緊張感を凝縮して表現している。
万物は、水によってうるおい、育ちゆくことができる。地球には水があり、水は太陽光に
暖められて水蒸気となり上昇し、上空に行くにしたがって冷やされ、水蒸気が凝結して雨と
なって降ってくる。水の中で偶然に原始生命が誕生し、生命進化により酸素を利用できる
プランクトンを餌として利用する魚が生まれ、それを食糧として利用する人間が海岸に住
み着いた。
「訴え叫ぶことから、言葉を絶って地に沈む静謐の霊歌をねがういま、私にとってのこの
句集は何らかの区切りになるかも知れぬ。収斂の時期、身軽にやさしくなりたい。」 句集
のあとがきにこう記した鬼房。雨を通して向こう側に何を見ようとしたのだろうか。
(大場鬼怒多)
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