小 熊 座 2018/7   №398 小熊座の好句
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    2018/7   №398 小熊座の好句  高野ムツオ



    古茶のよし新茶なおよし老いもよし        冨所 大輔

  金子兜太が他界してから百日を過ぎた。戦後俳句史は金子兜太の言動とともに刻

 まれてきたと言って過言ではない。現代俳句はかけがえのない精神的支柱を失った

 のである。追悼行事や特集は次々組まれている。だが、その俳句や精神がどう継が

 れてゆくかという大きな課題は難関として残っている。あせることはないが、俳句が人

 間の今日的課題から眼を背けるようになることだけはぜひ避けたい。私は二十歳で

 その著書『今日の俳句』によって俳句が今を生きる人間を表現できる器であると知っ

 たせいもあろうが、ことにその思いが強い。

  金子兜太の功績は他にもたくさんある。老いや死という存在の根本に関わることに

 も、それまでの俳人とは次元の違った言動をしてきた。ことあるごとに「俺はどうも死

 ぬ気はしない」「死んでもいのちは生きている」と語っていた。「生と死と同化する」とも

 述べている。金子兜太の一生は挑戦者としての生涯だったともいえる。労働組合の

 事務局長として学閥制度に挑み、戦争体験者として戦争反対を貫き、老病死という

 生き物の宿命をも超えようとしたのである。そして、その原点に俳句があった。

  掲句の老いのあり方にも、意識してか否か、金子兜太に啓発されたところがあるの

 ではないか。まず古茶のよろしさを称え、次に新茶はさらに旨いと独り言のように打

 ち出したところにそう感じる。一般的には、まず新茶をほめて、言い訳のように古茶

 の味わいも捨てがたいとするところだ。順序が入れ替わっている。ここに老年ゆえの

 主張がある。新茶の味は古茶の味を知って初めてわかるという主張である。古茶の

 味わいを知り尽くすことなく新茶を愛でても、それはうわべだけなのだ。下五の「老い

 もよし」がそれを裏付ける。人の生もまた同様といえよう。老いることは死に近づくこと

 だが、一つ見方を変えれば、未体験の時空を味わうことでもある。金子兜太がいう

 「いのちは生きている」とは死後も存在するということだが、それは言葉の中において

 初めて可能になることだ。俳句は自分の死後さえ表現することができる。

   
またの世は旅の花火師命懸

   
死後のわれ月光の瀧束ねゐる

 など佐藤鬼房の句がそう証明している。

    団塊の世代が何ぞ紅い薔薇          水戸 勇喜

  団塊世代に対抗する老いの意気込みである。その象徴として持ち出されたのが「紅

 い薔薇」であるところに諧謔味があふれる。老人の生命感としての紅い薔薇のなんと

 初々しいこと。作者は前者同様、小熊座の長老格である。

    ひばり野へ飛ぶ気の帽子押えたる      渡辺 智賀

  折からの強風に飛ばされそうになった帽子を押さえたという、ただそれだけのことだ

 が、帽子を擬人化したことで活力に満ちた句となった。飛びたいのは帽子以上に作

 者自身であることは間違いない。ここにもまた老いのエネルギーがある。

    あめんぼのぐいと地球をひっぱれる     須藤  結

  水の地球をひっぱっているのだ。こちらはまぎれもなく二十代のエネルギー。新鮮

 味にあふれる。






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