2018 VOL.34 NO.399 俳句時評
俳句作品はどう評価できるのか
武 良 竜 彦
俳句総合誌のうち、俳句評論賞(山本健吉評論賞)を設けている「俳句界」は、今年(20
18年)の五月号で、「現代評論の問題点」と題して、俳句評論家の大輪靖宏・坂口昌弘・
角谷昌子の三氏による鼎談記事を掲載していた。
俳句を作ることには熱心だが評論はあまり……という人が多いのが俳句界の現実だが、
俳句を文学表現論的に論じた評論を読むことは、俳句を多角的に捉える視座が養われ、
自分で俳句を詠むときに必ず力になる。俳句評論をほとんど読まずに、俳句作品の良し悪
しを自分の好みで判断するだけにしていると、いつまでも自分の殻から脱出できない。評
論を読む習慣がつけば、それを突破してゆく力が身につく。評論を読み、俳句の「表現方
法」論について考えるメリットはそこにある。「俳句界」のこの鼎談記事から、三氏の有意義
な提言を以下に摘録しておこう。
◎ 坂口氏の言葉から
最近の評論は作品批評を避け、俳人紹介、句集紹介等、時評的になってしまって自分の
批評がない。(山本)健吉などはすべて作品論から始まっている。作品を深く読み込み、
その作品についての過去の評論も全部読んでいる。その上で自分の意見を述べた。更に
作品論から俳人論、俳人論から文化論へと広げている。
※
最近、変だなと思うのは、「写生だからいい」「前衛だからいい」とかそういうことで判断し
ている。ある意味それはどうでもいいこと。読者は、なぜその句がいいのか説明して欲しい
のです。
※
文学作品である限り、他者の批評は必ず必要。これは文学の両輪だと思います。古代か
ら批評のない詩歌文学はありえない。山本健吉は中村草田男や金子兜太に向かってちゃ
んと批判した。
◎ 角谷氏の言葉から
東日本大震災の後、永瀬十悟さんが震災五十句で角川俳句賞を受賞されましたが、ネ
ット上で「応募している場合か」などというコメントがありました。これには驚かされました。
彼は震災地で季語と格闘してようやくまとめたのです。でも一方的に批難された。それは批
評ではない。
※
私たち中村草田男の師系の「未来図」は自然や季節や対象に触れ、感動を詠むのが句
作の姿勢です。でも、いわゆる言語派と呼ばれる俳人はそうではない。言葉と遊び、また
格闘し、そこから感動を自ら生み出す。同じ感動でも違います。だから、いわゆる花鳥諷詠
俳人から見れば異質に見てしまうけれど、それを否定せず、全部含めて俳句なんだという
広い視野で見る必要があるな、と思っています。
※
(いまの評論の傾向は)いろいろなところの寄せ集めになって「創見」の光る論になってい
ないということですね。
※
現代俳句、前衛系の俳句にも、松尾芭蕉や無常観がずっと流れているということ。摂津
幸彦や田中裕明などがそうで、摂津の文書に「自分の心の中にいつも鷗が住んでいて、
鷗の首が下がると死の方に傾く」などと書いてあるところがあります。これは虚無感なんで
す。彼はそれを克服するために俳句を書いて来たことがわかる。
◎ 大輪氏の言葉から
本来は評論と研究は別。では、だからと言って評論に研究は必要ないかというとそうでは
ない。それが無いと単なる感想になってしまう。(略)まず評論は研究を踏まえたものでない
といけない。(略)そしてその論に価値観が入ってこなければいけない。(略)そうすると今
度は評価の難しさが出てくる。(略)だから評論は難しいんです。
※ ※
坂口氏の「最近の評論は作品批評を避け、俳人紹介、句集紹介等、時評的になってしま
って自分の批評がない」という言葉は同感である。特に俳句総合誌の記事にそういう傾向
が強い。俳句総合誌はしっかりした評論を掲載して欲しいものだ。
角谷氏の永瀬十吾氏の角川賞作品について「震災地で季語と格闘してようやくまとめた」
言葉にも共感する。永瀬氏の受賞を「震災詠」だから特別扱いされたなどという評をする俳
人がいたとも聞く。永瀬氏はとても不快な思いをされただろう。私は「震災などの時事とは
共存できないと思われていた季語の、それまでにない新しい使い方をして、命の危機的な
現場を、独自の視座で詠む表現をしてみせた記念すべき作品」と評した書状を永瀬氏に送
った。批評するなら、その根拠を示したものでなければならない。だが、「俳句的世間」には
このような次元の感情的批評が溢れているのが現実で、情けないことである。
また同じ角谷氏が指摘する、芭蕉にもあった日本的無常観や「虚無感」とどう向き合うか
という視座も重要である。無自覚によくある日本的無常観に流されて作句していないか、と
自らに問う姿勢が必要だ。そんな伝統的な手垢に塗れた無常観を脱して、同様の主題を
表現するのなら、現代に通用する独創性をもったものでなければ意味がないということでも
ある。それが作句にいい意味での緊張感をもたらすということでもある。
大輪氏の言葉の「本来は評論と研究は別」という言葉は、評論賞の選考をしている俳人
に自覚してもらいたい言葉だ。受賞作の中には大学の研究論文ふうの、よく調べたなとい
うだけの、独自の創見のない評論が多い傾向がある。また「論に価値観が入ってこなけれ
ばいけない。(略)そうすると今度は評価の難しさが出てくる」という氏の言葉は、日本的な
俳句批評の古くて新しい問題を象徴している。西洋の芸術論、批評論ではそのことが精密
に論じられてきた分厚い歴史がある。日本にはそれが欠落しているのだ。
「俳句作品はどう評価できるのか」という問題は、その文学的価値基準を明確にするとい
う問題との格闘でもある。紙面が尽きた。その欠落部分については次回論じたい。
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