2018 VOL.34 NO.401 俳句時評
俳句作品はどう評価できるのか③
武 良 竜 彦
先月の課題のお浚いから。
練習問題 ノエル・キャロルの「価値づけ」定義に基づき、次の俳句の価値について記述せ
よ。その定義は次による。
黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ 林田紀音夫
「記述」= 何がどう描かれているか。
「分類」= ジャンル・カテゴリーへの分類。
「文脈づけ」= 作品の「環境」を記述する。
「解明」= 象徴記号の意味を解明する。
「解釈」=「主題・物語・行為」の意義を探る。
「分析」= 作品の「機能」を説明する。
解答例(※参考例。左記以外の「解」もあり得る。)
「記述」= 黄・青・赤の雨傘を俯瞰しているように描写し、そこから立ち上がる思いの表現
がされている。
「分類」= 無季定型俳句。雨傘は季語ではないが雨期のような印象を与える。伝統俳句的
な季節感を詠んだのではなく、作者のある想念の表現のために造形された表現である。
「文脈づけ」= 作者は戦後の貧しい工員生活の体験者で、この句の背景にもそんな環境
がある。雨傘の列は工員たちの出勤か退勤時の風景のようでもある。
「解明」= 黄の青の赤の雨傘が象徴するのは色とりどりの、つまり一人ひとり違う命の様。
同じ雨傘を差していても、死ぬ時は別々という思いを強める効果を上げている。
「解釈」= 雨が降るとみんな傘を差すが、一人ひとり違う色の傘を差している。みんないつ
か死ぬ運命だが死ぬ時は別々だ。いったいこの中の誰から死ぬことになるのか。言葉にさ
れた表現はそこで止められているが、この俳句の読後に沸き起こる読者の思いの方に、
作者の真の文学的主題(表現意図)がある。
「分析」= わざわざ、そんな表現をしている意図は、そこから読者の心に何か特別な思い
を沸き上がらせようとしているからだ。それがこの俳句の文学的主題である。色とりどりの
雨傘の群れを見て、つくづくそんな思いがこみ上げるのは今生きていることが「死ぬほど」
辛いという現実があるからだ。雨が降ると、同じように傘を差し、毎日同じような辛い労働
の日々を送っている。でも、傘の色が各々違うように、これからのことも、死ぬ時も死に方
も、みんな別々だ。「誰から死ぬ」という言葉に問い詰めるような機能を持たせていて、労
働や暮らしの辛さの表現に留まらない、人間という存在の根源的不安、不条理感まで感じ
させる作品である。それがこの作品が達成した文学的価値である。
※ ※
このようにノエル・キャロルの「価値づけ」定義に基づいた「鑑賞」「批評」なら、個人的で
恣意的な「読み」と批判されることはないのではないだろうか。
そして、この方法は他人の作品の鑑賞だけではなく、自分の俳句の「価値づけ」による推
敲に有用ではないだろうか。自分のこの俳句はどんな価値を創造し得ているのか、と自
問しつつ推敲する手段になる筈だ。
俳句総合誌の新人賞選考評や、俳人たちの俳句作品評の記事を読んでいて、選者たち
にこのような文学的評価基準や定見があるか疑問を感じることがある。某社の新人賞の
合評録に次のような記事があった。ある俳人が独創性を高く評価した作品に対して、別の
俳人が「新人賞に応募するのに、こんな死の題材の俳句が多いのはいかがなものか」と評
していた。もう一人の俳人は、「死の俳句はまあいいとしても、他の俳句が有り勝ちね」と評
していた。こんなふうに作品を評された応募者は、どう感じただろうか。このように個人的な
感想レベルの評価が罷り通っている。
評価に当たっての「基準」の話に戻ろう。
以上は俳句も含む芸術作品評価の方法についての一般論だが、もう一つ、私たちが忘
れてならない「俳句作品の評価」についての現代的基準が存在するということだ。つまり俳
句が「現代的である」と評する基準である。
金子兜太は「造形俳句六章」で、俳句が現代的であることの評価基準について明確にこ
う述べている。
「人間の社会的存在としての部面が決定的に人間を支配している時期、いわば政治
経済、文化などの社会営為が緊密に結合し、人間行為の全面を被うている時期」と
いう。
そんな現代は最早、花鳥諷詠の時代ではない。では、現代に通用する俳句表現の条件
とは何かと、私たちは常に問い続ける必要がある、という。
兜太は、俳句の表現は描写的傾向から表現的傾向へ分化し深化してきたと述べてい
る。
最初の描写的傾向は、「自己と客体という二元的関係を基本に置き、ここから客体
の描写を通じて主観を投影するという手法をとっている傾向」とし、「この主観が衰弱
するにつれ、描写だけが浮きあがり、これが中心になってしまうと、諷詠的傾向に墜
ち入ります」と述べている。
季語や自然に自分の思いを投影した描写的傾向の俳句と、そんな思い(主観)さえない
諷詠的傾向の俳句。これに対して表現的傾向では、「主客」の二元的な関係を解消し、自
己に一元化して描写という表現方法を捨て、自己の表現という命題に立ち向かう段階に入
る。この表現的傾向はさらに、象徴的傾向から主体的傾向に分化するという。
兜太は、「社会的要素が存在状態を規定するほど拡大した段階の人間の内面を主
体」と呼び、「それ以前の状態を個我」と呼んでいる。
「個我においては、自己の絶対的所在への関心と執着が強く感覚や考え方も極力
相対性を排除しようとします」 そして 「自然的・人間的な純正に拘泥することは、一
見はなばなしいが、その実、人間の内面を簡単に割り切って、何事も説明しない場
合が多いという結果になります。」 そういう個我に拘る表現が楽天的な「象徴的傾向」
の表現である。
「主体においては、自己の対他的意味への関わりが強まり、その感覚や考え方も
相対的であり、関係的です」 「主体的傾向にとっては、人間の関係はそれほど楽天
的ではありません」 「主体自身の存在感の全容が問題として意識され」 「主体の現
実性をいつも表現において問いただしている」 と「現代」的な俳句の条件について述べ
ている。
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