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 小熊座・月刊 
  


   2018 VOL.34  NO.402   俳句時評



      長谷川櫂著『俳句の誕生』を巡って ⑴
          ――俳句作品はどう評価できるのか 番外編

                              武 良 竜 彦



  2018年6月27日付朝日新聞夕刊のコラム記事で、長谷川櫂の新評論集 『俳句の誕

 生』の特集記事が掲載されていた。その記事の俳句的表現論に関連する箇所を以下に

 摘録する。

    ※    ※

  言語化することで失われてしまう言語以前の世界に言葉で触れるにはどうしたらいいか。

 こんな難問への答えを、俳人の長谷川櫂さんが評論『俳句の誕生』(筑摩書房)で鮮やか

 にまとめた。鍵になるのは「切れ字」が生み出す「間」だ。

  芭蕉の句、〈古池や蛙飛びこむ水のおと〉について、弟子の支考による『葛の松原』の記

 述から、「芭蕉は古池を見ていたわけではない。部屋の中での句会で、カエルが飛び込む

 音を聞いて作った」と分析する。

  「古池や」の「や」は間を生み出す切れ字。この一字によって、芭蕉の心は実在の空間か

 ら離れ、心の世界に浮かぶ古池、にたどりついた。それは、言葉の理屈の介在しない「空

 白の時空、沈黙の世界」であり、その世界でこそ詩歌が生まれる、というのだ。

  実作者としてはどのように沈黙の世界と対話しているのか。俳句を作るときの心の状態

 は「心がさまよっている、ぽーっとしている」という。意図してそういう状態に自らを置くことも

 できるが、日常生活のなかで突然、そういう状態が訪れることもあるという。(略)『俳句の

 誕生』では、現代の俳句について〈大衆化が極限にまで進み、内部から崩壊しつつある〉と

 警鐘を鳴らした。〈 批評と選句の能力を備えた俳句大衆の指導者だった 〉高浜虚子の死

 後、高度成長とマスメディアの発展によって大衆化はさらに進み、批評は衰退していった、

 とみる。近年では加藤楸邨、飯田龍太の名を挙げ、「2人が亡くなった後には批評性を持

 ち、時代を代表する俳人はいなくなった」と指摘する。

  こうした厳しい批判の言葉は、自身にも返ってくるのでは。そう問うと、「言葉と俳句の歴

 史を踏まえ、単なる好みでない選句ができ、きちんとした評論を書く。それが批評性を持っ

 た俳人。自分はそうなりたいと思っている」と話した。(略)「俳句の批評とはどうあるべきか

 という問いに対する現時点での答え。それがこの本です」

    ※    ※

  末尾の文の「俳句の批評とはどうあるべきか」を考える上で、問題なのは、長谷川櫂も言

 っているように、「単なる好みでない選句ができ、きちんとした評論を書く」ことの困難さにあ

 る。

  つまり、俳句作品を評価するに当たって、恣意的な評価ではない「客観的」な作品価値の

 判定は、どうすれば可能かという問題である。この新聞コラムからそのようなメッセージを

 受け取ったので、その観点で本書を読んでみた。

  本書の第一章「主体の転換」と題する論考で、歌仙を巻くときの状態に触れて、長谷川は

 「歌仙を巻く人々の間では主体の転換が次々に起こる」こととして、次のように述べる。


   主体が入れ替わるとはどういうことなのか。ある一人の連衆についてみれば、彼

  は付け句を詠むたびに本来の自分を離れて、しばし別の主体に成り替わるというこ

  とだ。これは一時的な幽体離脱であり、魂が本来の自分を抜け出して、別の主体

  に宿るということである。そのしばしの間、本来の自分は忘れられ、放心に陥る。平

  たくいえば、ぽーっとする。いわば「魂抜け」である。



  これは表現論なのだろうか。

  ここで長谷川がいう「主体」とは、私が俳句評論で使う言葉の「表現主体」とは意味が違う

 ようだ。

  朝日新聞コラムでの「言語化することで失われてしまう言語以前の世界に、言葉で触れ

 るにはどうしたらいいか」とか、「芭蕉の心は実在の空間から離れ、心の世界に浮かぶ古

 池、にたどりついた。それは、言葉の理屈の介在しない 『空白の時空、沈黙の世界』 であ

 り、その世界でこそ詩歌が生まれる」という考えにおける、主観を離れた心境で俳句を詠む

 ことの是を説明した言葉のようだ。

  長谷川の「歌仙の連衆は自分の番が来るたびに本来の自分を離れて別の人物になる」

 という「主体の転換」や「幽体離脱」という話は、いわゆる表現論における表現主体の話で

 はなく、精神的な一種のトランス状態を言っているようであり、俳句を詠むに当たっての心

 構えのような話に留まっている。柿本人麻呂の歌を論じた箇所では次のようにも述べてい

 る。


   詩歌を作るということは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきる

  ことである。詩歌の代作をすることである。

   役者が役になりきるように。神であれ人であれ他者を宿すには役者は空の器でな

  ければならない。同じように詩人も空の器でなければならない。空の器になるという

  ことは言葉をかえれば、我を忘れてぽーっとすること、ほうとすることだ。



  この本がいわゆる表現論考ではないことは、このような「ぽーっとする」状態で詠まれた

 俳句がいいもの、つまり優れた俳句だという、長谷川の断定的な主観で書かれていること

 を見ても解る。

  また、長谷川は本書の最後で、現代の俳句界が衰退している原因を、批評と選句という

 「俳句大衆の道標」の衰退にあるとしている。そしてそのことの論証はされず、長谷川の上

 記のような主観が述べられている。

  禅の思想などを背景にした長谷川の俳句観が述べられた本であるという読後感しか残ら

 ない。

  つまり、俳句表現にとって「表現主体」とは何か、というような問いに正面から立ち向かっ

 た論考ではないという印象しか残らない。次回、そのことをもう少し詳しく考察してみたい。





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