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2018/11 №402 小熊座の好句 高野ムツオ
白髪の根にのこりをりいなびかり 森 黄耿
白髪といえば李白の「秋浦歌」の冒頭の「白髪三千丈」を想起する。白髪を愁いによ
って伸びたと見たところに李白の想像力の面目がある。しかし、ここでは単純に年齢
の衰えと読むべきであろう。俳句はきわめて単純、かつ平凡な発想をきっかけとして
深い味わいが生まれることを忘れないようにしたい。老残のしかし、今もまだ「いなび
かり」を残している白髪。稲光の発見にこそ作者の想像力が働いている。
稲光は別名稲妻。稲穂が折からの雷光を帯びることによって実るとの信仰から付
いた名である。つまり、稲光は雷神のスペルマとしてイメージされてきた。「妻」と「夫」
は同義。この句は、直接稲光を浴びたわけではないだろうが、稲光に窓が明るくなる
たびに、自分の白髪の根にまで、それが届いていると感じた。忘れかけていた生命
の炎がよみがえる。「のこる」の一語が物を言う。外の稲光に呼応して、内なる肉体の
奥の稲光が見えてきている。
猪の血抜き場といふ流れあり 瀨古 篤丸
狩人を関東以北では「マタギ」という。猟師を意味する「山立ち」がなまってマタギと
なった説が有力だ。「叉鬼」や「又鬼」などの説もある。農耕生活と一線を区切って山
に暮らす人々は異界の住人でもあった。「鬼」はそれゆえ生まれた表記であろう。縄
文から弥生へ、狩猟から農耕へ文化や生活様式が変化し、その差異と侵略の繰り
返しが先住民を異族、まつろわぬ民、鬼と呼ぶようになった長い歴史がある。
猪や鹿は射殺した場合、できるだけ早く血抜きを行う必要がある。臭いを消し鮮度
を保つためだが、それにはきれいな水が必要だ。おそらく、土地それぞれに猟師のと
っておきの血洗い場があるに違いない。この句は、ただその場所を指し示しているだ
けだが、その静けさにかえって殺したものと殺されたものとの残酷なまでの対比が浮
かび上がる。血は水に還元されることによって、新しい生命の源となる。「流れあり」
には、そうした命の繰り返しと再生の場として川のあり方が示されている。
桃の香の夜風にまとひつかれをり 田中 麻衣
夜の桃といえば、「中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼」がすぐ思い浮かぶ。
目には見えない、しかし、確かな存在感が表現されている。物質感が濃醇なエロス
を生んでいるのだ。掲句は、匂いという流動体を詠っている分、エロスの生々しさは
薄れている。ただし、「まとひつく」という俗な言い回しが、良い意味での艶冶な俳諧
味を醸し出している。
葛這つて河原一枚動かしぬ 佐藤 茉
河原一面、這い覆っている葛。「葛の葉」は伝説上の狐の名とされ、人形浄瑠璃や
歌舞伎にも登場する。ちなみに「葛の葉」は安倍清明の母とも言われている。ひるが
えると白い葉裏を見せるので「裏見」の葉。「恨み」に係る。減る一方の葛原の恨みが
河原全体を動かすのである。
針突の皺々とあり盆の市 中村 春
「針突」は沖縄などの刺青のこと。初めて針突をする手を「サラ手」と言いまっさらな
手の意味。成女儀礼で子孫繁栄、魔除けの意味がある。初めての際には祝いの座
が設けられる。その年老いた手が先祖供養のための盆支度の品々を吟味している。
山川草木悉有仏性威銃 森 青萄
上五中七は「涅槃経」の一節。「威銃」の俗との取り合わせが諧謔味を溢れさせ痛
烈。
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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