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 小熊座・月刊 
  


   2018 VOL.34  NO.403   俳句時評



      長谷川櫂著『俳句の誕生』を巡って ⑵
                   ――表現主題・表現主体とは

                              武 良 竜 彦



  (前回の続き)

  「作者が作者自身を離れて詩歌の主体となりきる」という言葉は、表現主体は生身の作

 者ではなく、創作に向かうとき、その表現のすべてに表現主体として対峙する創作的人格

 である、という意味であって、長谷川櫂の言葉から覗える自我を脱して「ぽーっと」する、つ

 まり主体放棄の状態、無我的な状態で俳句を詠むことの是非論の文脈で論じられることと

 は、論考のステージが違い過ぎる。

  「ぽーっとした」状態の無我の境地で俳句を詠むことを是とする立場を、長谷川櫂がいく

 ら強調しても、最後はその俳句を創作した「表現主体」と作品の表現価値との関係の問題

 は残る。

  この本(『俳句の誕生』)では、俳句を詠む側の態度の話に終始している印象を受ける。

 例えば読者としてその俳句作品と接したとき、どう評価すればいいのか、というようなこと

 は 一切語られていない。創る側の視点だけで「主体の転換」を語っても、その論旨の客

 観性は保証されない。

  金子兜太は「造形俳句論」で「表現主体」のことを「創る私」と呼んで論考を展開している。

 兜太は俳句の表現は、描写的傾向から表現的傾向へ分化し深化してきたとして、その過

 程での表現主体の在り様を次のように述べている。

  最初の描写的傾向は 「自己と客体という二元的関係を基本に置き、ここから客体の描写

 を通じて主観を投影するという手法をとっている傾向」 とし、「この主観が衰弱するにつれ、

 描写だけが浮きあがり、これが中心になってしまうと、諷詠的傾向に墜ち入ります」と述べ

 ている。

  季語や自然に自分の思いを投影した描写的傾向の俳句と、そんな思い(主観)さえない

 諷詠的傾向の俳句のことだ。

  次に表現的傾向と象徴的傾向、さらに主体的傾向と、段階的に進化する表現の在り方を

 説明している。

  表現的傾向では、「主客」の二元的な関係を解消し、自己に一元化して描写という表現方

 法を捨て、自己の表現という命題に立ち向かう段階に入る。この表現的傾向はさらに、象

 徴的傾向から主体的傾向に分化するという。

  兜太は「社会的要素が存在状態を規定するほど拡大した段階の人間の内面を主体」と

 呼び、「それ以前の状態を個我」と呼んでいる。

  「個我においては、自己の絶対的所在への関心と執着が強く感覚や考え方も極力相対

 性を排除しようとします」そして「自然的・人間的な純正に拘泥することは、一見はなばなし

 いが、その実、人間の内面を簡単に割り切って、何事も説明しない場合が多いという結果

 になります」と述べている。俳句表現について客観的に分析した卓見だ。

  長谷川櫂の『俳句の誕生』に欠けているのは、このような客観的な論証性である。

  兜太は、そういう個我に拘る表現が楽天的な「象徴的傾向」の表現であるという。

  「主体においては、自己の対他的意味への関わりが強まり、その感覚や考え方も相対的

 であり、関係的です」

  「主体的傾向にとっては、人間の関係はそれほど楽天的ではありません」

  「主体自身の存在感の全容が問題として意識され」

  「主体の現実性をいつも表現において問いただしている」必要があると、現代的な俳句の

 条件について述べている。

  長谷川櫂の『俳句の誕生』における「主体の転換」の話は、表現論的にはこの文脈で言

 及されるべき性質のものだ。兜太の「表現主体」の主観、客観論争に始まる、俳句の歴史

 的な表現認識の変遷を踏まえた隙のない論考は論証的である。長谷川櫂の著書にはこの

 視座が欠落している。

  長谷川櫂がイメージしていると思われる「主体の転換」や「ぽーっとした」状態は、兜太の

 論考の中では、自我の超越とか、自他合一というような形で述べられている。

  長谷川櫂の「主体の転換」の話は、作品の表現理論というより、禅的な態度、俳句を詠

 む者の内面的な姿勢の話のような印象を受ける。極めて非文学的論な表現論だ。

  文学表現として見た場合、俳句表現のことを考える上で大切なことは、表現された作品を

 (文学作品の表現として)どう評価できるのか、ということである。

  ある俳句作品の、そこで達成された作品としての「価値」と、俳人各自の表現方法論との

 関係は、兜太が試みたように、もっと精密に論じられるべきことである。

  それはもう汎文学論的な範疇の、いわば批評哲学的な視座による論考を要することであ

 って、長谷川櫂が前提とする日本的(東洋的?)「言葉と俳句の歴史を踏まえ」るだけでは

 十分ではない問題である。それを超えた次元で論じられなければ解明できない問題だ。

  この問題は、この連作論考で先に紹介したノエル・キャロルが『批評について 芸術批評

 の哲学』という著書で述べているような、「批評=理由にもとづいた価値づけ」とその証明

 の手続きが欠かせないということだ。以前にも紹介したが、ここに改めて要約して再録して

 おく。

  ノエル・キャロルは、芸術批評を芸術作品の何らかの理由に基づく「価値づけ」と定義し

 て芸術作品の価値は、作家がその作品によって「達成したこと」を、その作品が属す諸ジ

 ャンルと諸カテゴリーに照合することによって解明されるとする。そこで、何をどのように達

 成したのかを確かめるには、制作にあたって作家が掲げた、「意図と目的」を把握する必

 要がある。

  「記述」= 何がどう描かれているか。

  「分類」= ジャンル・カテゴリーへの分類。

  「文脈づけ」= 作品の「環境」を記述する。

  「解明」= 象徴記号の意味を解明する。

  「解釈」=「主題・物語・行為」の意義を探る。

  「分析」= 作品の「機能」を説明する。

  以上が批評すなわち「価値づけ」という「定義」の内容である。この視点に立てば批評は

 主観の押しつけではなく、芸術作品との対話に基づいて、芸術家がその作品に込めた意

 図を客観的に理解する過程の一部である。そんな表現主題に対峙する、「わたくし性」を超

 越した作者の精神が、表現主体というものであり、没我、無我の状態で詠むことを是として

 も、主体はそこに厳然として存在するものだ。




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