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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (100) 2019.vol.35 no.404
成熟が死か麦秋の瀬音して 鬼房
『地 楡』(昭和五十年刊)
「麦秋」という言葉は、「秋」という文字が入っていながら夏の季語なのだという。麦の
熟する時期というこの季語の意味は、「成熟」という言葉に共鳴している。「瀬音」という
言葉も、このたび初めて知った。意味を調べてみると、「浅瀬を流れる川の音」とのこと
だった。随分と難しい熟語が続くなあと思いつつ意味が一通りわかったところで、この
句を読んで考えたことを書いてみたいと思う。
麦の実りは喜ばしいことでありながら、「麦の死(=収穫)」もまたそこにあるのだろうと
思う。麦は、かわいそうだからと言っていつまでも収穫しないで植えっぱなしにしておく
わけにはいかない。「死」がそこにあるからこそ、実りのありがたみが浮かび上がってく
るのだ。「瀬音」という意味深な言葉は、その宿命ともいえる時の流れを比喩的に表現
しているのかもしれないと考えた。
わたしたち人間もまた、瀬音とともにある。生まれてきたことをいろいろな人に祝っても
らったわたしたちは、実はみな「死」に向かって歩き始めているのだ。昔は楽しみだった
誕生日が憂鬱になるのは何歳ころからなのだろう。年を重ねるほど、その瀬音は大きく
なっていくのかもしれない。
(うにがわえりも「むじな」)
掲句は小熊座誌2018年9月号の青木亮人氏の「鬼房の句にはごつごつした漢語を
唐突に裁ち入れる迫力があった」という指摘に対し、漢語を冒頭に持って来ているわり
には迫力を感じない。この成熟という言葉に私は受容と決意の混ざり合ったイメージを
持った。
この句は青々と他の植物が茂っていく中、黄金色に成熟した麦を刈り取っていく。そ
れは麦にとっての死ではあるが、耳順まぢかな自分(鬼房)は成熟を選ばず、もがきな
がらも生き抜いてきた。麦畑の先に瀬音が聞こえる。水の本質は頑固なほど変わらな
い。それこそが私なのである。水が岩に砕かれても前に進むように私は生きてきたの
だと解釈できる。成熟は実った麦のことではあるがそれ以上のものを指している。
この句を含む句集『地楡』が編まれた時代に記された鬼房のエッセイ「雑感・わが新
興俳句」『佐藤鬼房句集―砂子屋書房1999』に「かつて、そしていまも、新興俳句を
嫌い反撥した反陣営(つまり当時の権威)は、新興俳句の出会いによって、御身ら自身
がいちばん益したのである。歴史とはそういうものであろう。」を見つけた時、成熟が死
かと例えられたものは新興俳句かもしれないと思った。江戸時代、麦の秋という季語に
は、貧困、生死、飢えという意味が含まれていたという。それは権威の反対側にあるも
のと言えよう。
(𠮷野 秀彦)
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