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 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.405   俳句時評



      兜太忌に―スローガン言語の非文学性について

                              武 良 竜 彦



  去年、2018年10月1日の朝日新聞朝刊記事に《兜太の句、すべての言葉を詩に 雑

 誌「兜太 TOTA」創刊、シンポジウム》と題して次の記事が掲載されていた。その全文をこ

 こに再録する。

     ※

  今年2月に98歳で亡くなった俳人、金子兜太さんの人気はなお根強い。長く選者だった

 朝日俳壇には今も毎週、その名を詠み込んで兜太さんを追悼する句が届いている。先月

 25日には藤原書店から新雑誌「兜太 TOTA」が創刊され、東京都内で記念シンポジウム

 「兜太を語り TOTAと生きる」が開かれた。

    ■定型と非定型、幅が生んだ「大きな人」

  社会学者の上野千鶴子さんは、季語や五七五の定型にこだわらない句も詠んだ兜太さ

 んを「こんな人が俳句界の主流だったとは信じられない」と評した。学生時代に京大俳句会

 に所属した上野さんは尾崎放哉の自由律俳句にひかれ、「花鳥諷詠も写生も大嫌い。有

 季定型の俳句は殺意を抱くほど憎んでいた」と言う。/季語があって五七五という形式を

 借りれば成立する俳句は、素人も参入しやすい文芸だ。だが、裾野が広いからこそ「俳句

 界のリーダーには、有季定型と対峙する緊張関係を持ってほしい」と上野さんは考える。

 「兜太さんには社会詠もあるし、定型を食い破っておとなしく五七五に収まらないパフォー

 マンスも見せてくれた」/作家のいとうせいこうさんは兜太さんと共に、中日新聞(東京新

 聞)紙上で「平和の俳句」選者を務めた。政治的メッセージをそのままぶつけるような投稿

 句も多かったが、兜太さんは「言いたいことがある句が強いんだ」と、そうした句もよく選ん

 だ。/日本語では政治の言葉と日常の言葉が別のものになってしまい、詩で政治を語るこ

 とができなくなっているのでは? いとうさんはそう案じたが、兜太さんは「まったくそんなこ

 とはない。すべての日本語は詩語だ」と言い切ったという。/ただ兜太さんは「そのために

 は定型が必要なんだ」とも付け加えた。詩的に見えない言葉を詩にのせる枠組みが、五七

 五という定型だった。いとうさんは「そのわりには自身の句は定型でないものも多い。ある

 ときは肯定、あるときは否定、その切り替えを繰り返すことで、兜太さんは幅のある大きな

 人になったのでは」としのんだ。/ごつごつした句を詠む前衛俳人だった兜太さんは晩年、

 トラック島での自身の戦争体験に基づいた反戦平和の語り手がもう一つの顔になった。

 シンポジウムに先立ち登壇した作家の澤地久枝さんは、兜太さんに依頼して書いてもらっ

 た揮毫「アベ政治を許さない」の色紙を掲げ、「兜太さんは生の政治を語らない人だった。

 これは政治の言葉でしょうか?」と会場に問いかけていた。(樋口大二)

     ※

  私なら「それは政治の言葉でも文学の言葉でもなく、スローガン言語というものではない

 ですか」と応えたい。

  自己都合を大義にみせかける政権運営、世論の大半が賛成していない安保法制などを

 国会議席の数で乱暴粗雑に押し通す熟議無き国会運営と国民軽視、そして自己保身の忖

 度官僚たちの文書改竄や、横着で誠実さの欠片もない態度、質の低下した議員たちの虚

 言や暴言。独善で人権軽視などの言動をして憚らない「アベ政治」。それは今のポピュリズ

 ム世相同様、叩くに容易な解りやすい劣等政治だと言える。「アベ政治を許さない」という、

 これまた解りやすいスローガン言語表現でそれを批判する。それは「アベ政治」の品質と同

 等の言語表現の劣化ではないか。

  こう批判したら大方の顰蹙を買うだろうか。

  だが私にはそんな危うさが感じられて仕方がなかった。

  また同じ記事の文脈の中で、

 「すべての日本語は詩語だ」

 「そのためには定型が必要なんだ」

 という言葉が紹介されていることにも違和感を抱いた。

  そんな直接的なスローガン言語を定型の中に落とし込んで、例えば「降る雪やアベ政治

 を許さない」と詠んだとしよう。果たしてこれを俳句と呼べるだろうか。呼べないはずだ。

 それは文学とは無縁な「説明文」ではないか。定型に嵌め込んでも俳句にはならない「日

 本語」があるのだ。吉本隆明の一連の芸術言語論の定義に倣えば、それは文学的表現で

 ある自己表出語とは逆立する、指示表出言語のたぐい、つまり物事を説明する理屈語で

 ある。

    沖縄を見殺しにするな春怒涛

  兜太にはこのような句がある。このような俳句も平然と大量に詠んだのが金子兜太の個

 性のひとつでもあった。またまた顰蹙覚悟で批判するなら、私は兜太のそのような俳句は

 評価できない。それは兜太が佐藤鬼房たちと若い頃熱心に取り組んだ「社会性俳句」とい

 うものの劣化したものにしか見えないからだ。同志だった佐藤鬼房が生きていて、これらの

 句を読んだら眉を顰めるに違いないと確信する。「沖縄を見殺しにするな」という言葉は、

 「アベ政治を許さない」と同等のスローガン言語、つまり指示表出的な言語表現である。そ

 れを読んだ読者の心に、なんの感慨も引き起こすことのない、ただの個人的な感情の表明

 である。

  かつて「社会性俳句」と呼ばれた俳句の大半が、スローガン言語表現に陥った歴史に学

 ぶ必要があるだろう。

  私たちはなんのために文学としての俳句を創作しているのか。私たちの精神を世俗的な

 固定概念から解放し、そこから自由で自立した言語表現をするために、俳句という文学に

 情熱を捧げているのではないのだろうか。自立した文学的な俳句表現をするためには、自

 己表出語によって、内面化した言葉を研ぎ澄ます必要があるのではないか。

  次は本誌同人の「社会性俳句」に相当する秀句である。

    ふらここや聞こえぬやうに厭戦歌        春日石疼

  「戦争反対」などと声高に叫ぶ社会流通語は魂の固有性の敵である。スローガン的指示

 表出語は、私たちの生きる時空を疾病のごとく浸食する。春日石疼氏はそれに抗い、耳を

 澄まさなければ聴き取れない文学的自己表出語である俳句で、深く胸を刺す言葉で「聞こ

 えぬやうに厭戦歌」を囁くのだ。内面化されないすべての日本語は詩語ではない。




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