小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 
  

 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.412   俳句時評



      八年目の「震災詠」考 ⑹
            ―『釜石の風』照井翠の思索から③


                              武 良 竜 彦



  「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」 (ユダヤ系ドイツ人哲学者テオドー

 ル・W・アドルノ著の『プリズメン―文化批判と社会』 渡辺祐邦・三原弟平訳 ちくま学芸文

 庫より)

  果てしなく進行する 「絶対的物象化」 時代の文化現象を鋭く追求した書物の言葉だ。震

 災直後、作家の辺見庸がエッセイで引用したことで、一躍有名になったフレーズである。だ

 が、この言葉の真の意味を何人の人が理解したのだろうか。この言葉を理解するために、

 アドルノの別の著作の少し易しい文章を次に引いておこう。

  「アウシュヴイッツ以降は、このわれわれの生存が肯定的なものであるといういかなる主

 張も単なるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当な行為であるという

 抵抗感が沸きおこらざるを得ない。そしていかに空洞化した意味であれ、なんらかの意味

 を彼ら犠牲者たちの運命から引きだそうとすることにも抵抗感があるが、この抵抗感は、

 あのいっさいの出来事のあとでは客観的な契機を持っているのだ」
(『否定弁証法』木川元

 ほか訳 作品社 1996年)

  少しは理解しやすくなっただろうか。「絶対的物象化」時代に言語表現が陥る危機の正体

 が示唆されているのだ。元々記号に過ぎない「言葉」が加速度的に「物象化」、つまり、ただ

 物を指す記号から、その物からも剥がれ落ちて、記号自身が何も指さない準「物的」になっ

 てしまう、というような意味合いだと説明すれば、少しズレルことになるにしても大意は把握

 できるのではないだろうか。
 
  そしてもっと実感的に理解できるようになるには、本稿の照井翠句集・エッセイを巡って、

 照井翠の思索の後を追跡しながら、私が二回にわたって論述してきた具体的事象を想起

 されるといいだろう。

  石牟礼道子と照井翠が直面した「言葉の真空状態」に、それでも文学的言葉を与えようと

 内的な自己表出に向かう欲求を駆り立てて言葉を発する人の、その内面を律する矜持と、

 このアドルノの言葉には通底するものがある、と実感していただけたら、ほぼその真意を

 理解したといえるのではないか。それはまさに次のくだりだ。

  震災後のメディア語から世間語、そしてあろうことか俳句のような文学的表現語に氾濫し

 た「われわれの生存が肯定的なものであるといういかなる主張」、具体例としては俳句界を

 席巻した「励まし」、メディアが先導した「オール、ニッポン」などなどが、「単なるおしゃべり」

 と化してしまっていることへの、強烈な批判にもなっている言葉ではないだろうか。

  「いかに空洞化した意味であれ、なんらかの意味を彼ら犠牲者たちの運命から引きだそ

 うとすることにも抵抗」や含羞の欠片も感じ得ない人たちの「おしゃべり」とは袂を分かつ地

 平に向けて、石牟礼道子は『苦海浄土』を書き、照井翠は『龍宮』を詠み、『釜石の風』でエ

 ッセイを書き続けてきた。前回までそのことを論証的に述べてきたつもりである。

  犠牲者、被災者に俗識的な勝手な「物語」を与えて、これ以上「消費型文化社会」に貢献

 するのは止めて欲しいと、この二人が主張しているように聞こえないだろうか。

  水俣病や大震災、原発事故禍について何か言葉を発したいのなら、いかなる 「指示表出

 的消費」 言語表現とも決別して、被害地、被災地の現実、そしてその中で苦悩している人

 たちの心的真実にしっかり思索の垂鉛を下ろし、噛みしめてからにしなさい、ということだ。

  世間語と被災者たちのものごとの受け止め方が決定的に違うのは、次のようなことだ。

  「復興=善」

  「喪失の悲しみから早く立ち直ること=善」

 という世間語的な善の感覚である。

  被災現場を生きる者にとって「復興」はさらなる「喪失」でしかない。故郷は今や更地化の

 後、盛り土の下だ。

  「悲しみから立ち直れ」というのは、「死者のことなど早く忘れてしまえ」というに等しい。

  アドルノを引き合いに出さなくても、心は物ではない。心はあらゆるものを内面化して、人

 を内側から生かしている力という作用である。だから、心の中に刻まれた死者は、その生

 前のすべてを含めて、恒久的現在として存在し続けるものだ。悲しみは人を内側から生か

 す力そのものだ。

  文学は現代社会の「物象化」とも闘ってゆかなければならないが、その意志でさえ、一つ

 の正義として幟を立てるように主張するものでもない。ただ内なる自己表出へ向かう欲求

 によって、自立した言語表現をしてゆくだけのものである。俳句界ではこのことが根本的に

 理解されていないように感じるのは私だけだろうか? 自己表出された俳句作品が、一元

 的な「わたくし性」を脱して何ものにも絡めとられない、普遍的な地平へと解放される瞬間

 の体験を、照井翠はこのエッセイで次のように述べている。北鎌倉の寺院の庵で『龍宮』の

 朗読会が行われたときのことだ。

     ※

  ああ、見える、見えてくる。三月十一日の雪が、泥が、釜石が。 (略) 野口さん(※朗読

 者)の低く深い声は、此の世と異界の壁を易々と乗り越え、私は見知らぬ時空へと連れ去

 られる。

  野口さんの声は、憑依の声、霊界の声。此の世と彼の世の「あはひ」の声。どの一句も、

 聴く者の魂にダイレクトに深々と届く。

  異界の声による朗読を聴きながら、ふと、不思議な感覚に捕らわれた。これらの俳句の

 作者は、一体誰なのだろうかと。もちろん実作者は私だ。しかし私は「書いた」だけなのか

 も知れない。本当の作者は、非業の死を遂げた方々の御霊なのではないだろうか。

  『龍宮』の作者は、誰なのだろう?


     ※

  言葉の物象化に抗う力は、作者という固有の身体から発しながら、その個体を置き去り

 にする彼岸と此岸の「あわひ」で作用し、すべての魂に共有されて発現するものだ。




                          パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                     copyright(C) kogumaza All rights reserved