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 小熊座・月刊  


   2019 VOL.35  NO.413   俳句時評



      八年目の「震災詠」考 ⑺ 最終回
            ―『釜石の風』照井翠の思索から④


                              武 良 竜 彦



  作者も読者もそれに創造的にかかわる時、作者が誰かはもはや問題ではなく、文

 学は無名の状態を目ざす。
 〈E・M・フォースター評論「無名ということ」小野寺健訳『フォ

 ースター評論集』(岩波文庫1996年)〉

  英国の哲学・評論家フォースターはまず「情報は正確なときに真理となり、詩は自立した

 まとまりを持つときに真理となる」と述べてから、詩において重要なのはそれを誰が書いた

 かではなく、目の前の「事象」の「正確」性以上に「本質的」な世界を生みだす作品そのもの

 だと言う。

  照井翠の震災時から現在までの文学的思索に一貫している姿勢は、言葉によって命と

 存在の在り様を噛みしめることだったといえるだろう。そして重要なことは、フォースターの

 言葉を引き合いに出すまでもなく 「無名性」、つまり前回述べたように、「作者という固有の

 身体から発しながら、その個体を置き去りにする彼岸と此岸の『あわひ』で作用し、すべて

 の魂に共有されて発現する」 本質的で創造的な表現の普遍性が獲得する「無名性」であ

 る。

     ※

  桜は、何のために咲いたのだろう。

  あの日、朝「行ってきます」と家族に挨拶したきり、帰ることのなかった人々。「あな

 たに会えてよかった」、「幸せでした」、「今までありがとう」、「さようなら」……。伝えら

 れなかった言葉や念が、被災地の虚空を厚く覆っていた。呼吸をしていて、息苦しか

 った。

  そして、ある時了解した。震災後、辛くも被災を免れて咲いた桜は、さよならを告げ

 るために咲いたのだと。咲くことで、念を絶ち切った。咲くことが、別れだった。あの

 春、被災地の桜は咲かなければならなかった。亡くなった人の念を取り込み、桜は咲

 いた。 
(『釜石の風』「さよならを言うために」より)

     ※

  被災地の被災桜が奇跡的に咲いたということは、確かな目撃証言があるので「真理」だと

 いえる。だが被災遺族たちの心に「さよならを告げるために咲いた」というのは、作者の主

 観であり事実とは異なる。言葉が「本質的」「創造的」な「無名」性を獲得し、多くの魂たちと

 共有されるとき「真理」となる。照井翠の俳句と言葉はその「真理」だ。照井翠の『龍宮』に

 始まり『釜石の風』にいたる自己表出を貫くのは、そういう文学的姿勢である。

  『龍宮』以後の照井翠の俳句を次に引く。


    螢(ほうたる)や握りしめゐて喪ふ手

   話すから螢袋を耳にあてよ

   分かるのか二万の蟬の溺死なら

   霧がなあ霧が海這ひ魂(たま)呼ぶよ

   別々に流されて逢ふ天の川


   滅亡の文明ほどに土盛らる


  神野紗希が、「俳句αアルファ」2019年春号、書評頁の高野ムツオ主宰著『語り継ぐい

 のちの俳句 3・11以後のまなざし』についての評文で、高野ムツオと照井翠の句を牽い

 て、次のように述べているくだりがある。

     ※

  なかでも震災を経た高野が重要視するのは「想像力」だ。

   泥かぶるたびに角組み光る蘆      高野ムツオ

   喉奥の泥は乾かずランドセル       照井  翠


  震災直後に詠まれた二句である。高野の句、実際には蘆はまだ芽吹く前だったが、自宅

 前の川のさざなみの光を見て、来るべき春を想像した。照井の句は一見リアルだが、高野

 は「喉の奥の泥というのは、たとえ亡くなった子供の姿を実際に目にしたとしても、見えるは

 ずがありません。だから、これもやっぱり、想像力が捉えた俳句」と読み解く。

  震災は、人間がいかに小さく無力であるかを突きつけた。だが同時に、だからこそ言葉

 の想像力が、生きる力を支えることも再確認させてくれた。

   草の実の一粒として陸奥にあり      高野ムツオ

  草の実の一粒である私が、ここに生きていることを詠む。言葉で生を、自己の存在を確

 認するあり方を、高野は俳句の根源に見る。


     ※

  神野がこう指摘する高野ムツオの姿勢を、永瀬十悟と照井翠も共有している。三人とも

 命と存在の在り様を見つめる文学的姿勢を貫いてきたといえるだろう。

  そして、後三つ共有されていることがある。

  それは季語、無名性、沈黙を背負う深い思想性である。

  まず季語の問題。俳句は時事詠に向かないというそれまでの俳壇の思い込みの視座に

 含まれる、季語が足枷になるという季語に対するネガティブな評価を超えて、本来なら自然

 に真摯に向き合う人間の在り方を含む表現機能を持っていたはずの原点に、震災体験で

 立ち戻る視座を獲得したということだ。高野ムツオはそれを、俳句に「本来の力に加え新た

 な面が加わったと受け取るべきだ」と述べている。本来の姿に戻ったとも言えるのではない

 か。永瀬十悟と照井翠はそれを実作で示した。自然の中で死と生に向き合うことが、本来

 の俳句であると信じて表現し続けた。

  もう一つは俳句の無名性。本稿でそのことについてはすでに詳述したので繰り返さない。

  もう一つは沈黙を背負う深い思想性である。戦争や災害という過酷な命の現場では、言

 葉の真空状態が発生する。言葉を失うほどの体験だからだ。だが、そこにこそ、言葉を与

 える使命があるという文学的思想性である。

  そしてこの三つの視座を俳句表現として可能にするのが、神野が高野ムツオの言葉を引

 用して述べている想像力に他ならない。スローガン俳句、一方的な励ましや、自己の中に

 閉じこもる祈りの俳句に欠落していたのは、この三つの姿勢を表現力に転換する想像力だ

 ったと言えるだろう。

   屍より管伸びきたる浮葉かな       照井  翠

   死の風の吹く日も麦の熟れゆけり       〃
  

                   (「現代俳句」二〇一九年六月号「百景共吟」より)




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