小 熊 座 2020/4   №419 小熊座の好句
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    2020/4   №419 小熊座の好句  高野ムツオ



    戦争の語り部の背に立つ鬼火      沢木 美子

  金子兜太に〈青春の「十五年戦争」の狐火〉があるので、発想が類似している弱さは

 否めない。だが、この映像の不穏さ、不気味さはやはり別物である。鬼火は燐火とも

 呼ばれる。古代中国では「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」といわれていた。

 当時の燐は化学で用いられる元素のリンとは異なるとのこと。リンにも発光成分があ

 り、死体が分解される過程で青白く光る。少年時代に目をかけてくれた寺の住職も何

 度か見たと語っていた。『和漢三才図会』、には『戦死した人間や馬、牛の血が地面

 に沁み込み、長い年月の末に精霊に変化したもの』とある。鬼火が死者の魂の再来

 と信じられていたのは疑いない。恐怖を伴いながらも、再生、復活を待ち望む心が先

 にあって、それが鬼火を生んだのだろう。この句の鬼火は語りによって降臨してきた

 魂である。「語り」は語り部自身を依り代とした招魂の手段として広く継承されてきた。

 青森のイタコや沖縄のユタなど。だが、特殊な霊力がなくても、語り部の言葉にのりう

 つって死者が現れることはある。戦争や大震災の語り部たちの背にも異界から、懐

 かしい現世を恋うと同時に呪い、怒り、悲しみ現れる。その声にこそ耳を澄ませとこ

 の句は訴えている。狐火も似た現象。狐の提灯とも言われるように集団それも一列

 のイメージ。金子兜太の句が集団の怖さをことに帯び、沢木美子の句は孤独の悲嘆

 と恨みをより濃く帯びる。

  『怖い俳句』は倉阪鬼一郎の怪著だが、氏は、俳句が日本最恐の文芸形式と指摘

 している。恐怖とは自己存在を脅かす対象への反応で、死の認識つまり自己非在へ

 の脅威の意識から生まれる感情という。実際に脅威にさらされなくとも恐怖心は起き

 る。俳句はそのもたらす映像や意味世界によって、読者の存在そのものを揺るがす

 力を持っている。おそらく俳句の諧謔の本質もこの辺にあるのではないか。

    狛犬の舌見えており牡丹の芽      永野 シン

  これも怖い句だが、この怖さは自分の存在を直接的に脅かすところから派生しては

 いない。脅かすかもしれない、その一歩手前で恐怖自体をどこか楽しんでいるゆとり

 がある。怪談物を見聞きする心理とよく似ている。( 閻王の口や牡丹を吐かんとす

 蕪村 )に通うものがある。牡丹はまだ芽のままで、狛犬の口の中から業火よろしく舌

 が見え隠れしている。鑑賞の仕方では、もしかすると、こちらの方の怖さがより身の

 毛が立ってくるかもしれない。身の毛が立つというのも恐怖が寒さの結びついた時の

 身体表現の一種、「怯える」「震える」など体毛が退化した人類にことによく見られる恐

 怖反応だという。

    からだぢゆう金属の音星凍つる     八島 岳洋

  だが、本当に怖いのは、このように体中が氷った金属と感じられる、命の危機の時

 だ。身体の一部を切除しながらも病と闘っている人の作という前提なしでも切実であ

 る。

    冬木道上九一色村消えし         今野まさる


  これはかつて不幸にもオウム真理教事件で恐怖の震源地の舞台となってしまった

 今は廃止された村を詠ったもの。冬木道だけが満州引揚者の開拓の苦難までも語っ

 ている。




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