2020 VOL.36 NO.420 俳句時評
九年目の震災詠考 2
――永田耕衣・増田まさみ
武 良 竜 彦
昨年(2019年)この「俳句時評」で東日本大震災後の震災詠の総括を試みた。今回は
阪神淡路大震災時にまで遡って、改めて震災詠について考えてみたい。
東日本大震災から遡ること16年前に起こった阪神淡路大震災において、同じように自
宅全壊という被害に遭った二人の俳人の、俳句作品について紹介したい。
それは増田まさみ氏と永田耕衣である。
増田まさみ氏の句集『冬の楽奏』(1999年7月刊)に、「兵庫県南部地震八句」が収載さ
れている。
凍土に溺れる家の骨肉ぞ
淡雪の後夜目に浮くなま卵
屍都を繙くおとといの河骨と
廃都の奥にぞ打ち込みたる向日葵
干し竿や凹部の秋の行方しれず
居ぬ人の器の縁をつたう秋
血を流す落書のあり冬の塔
電球をくわえ冬川流れけり
そして震災句に加えてもよいと、後年本人から教示されたのが次の二句である。
雲切れて行方不明となる屍
凍川に居もせぬ馬を加えけり
震災は文学の表現者にとって、人の死のフィジカルな喪失が与える衝撃だけに留まらず
深く死生観に影響を及ぼす体験である。激甚震災は文字通り、言語に絶する表象の不可
能性を突きつける。
ここでは震災後の景の奥底に潜むものの本質を求める視座が「屍都を繙く」という言葉
で表現されている。
「凍土に溺れる家の骨肉」 「夜目に浮くなま卵」 「おとといの河骨」 「打ち込みたる
向日葵」 「干し竿の凹部の秋」 「居ぬ人の器の縁をつたう秋」 「血を流す落書」
「電球をくわえ」 「居もせぬ馬」……
現実には見えていない幻視的造形による具象表現をもって、震災体験の内実に迫ろうと
する。命とそれまでの環境、精神文化を根こそぎ破壊するという不意打ちの災禍は、否応
なくそれを受苦した者を自省的にするのか。氏は続く句集 『ユキノチクモリ』 の「あとがき」
でこう述懐している。
※
『ユキノチクモリ』 は 「雪のち曇り」 である。私の生まれ育った山陰の鳥取は、かつて「裏
日本」と呼ばれ、その近海は「裏海」と呼ばれた。(略)いまもって私の身体感覚や思考に
色濃く作用するのは、雪と雨に閉ざされた《窓》を挟んで内外に畳まれ展げられる景色で
あり、創造も日々の営為も、いわばそこに圧縮された内なるエネルギーによって支えられ
ている。
※
このような命の原点への思索を経て、これらの「震災詠」は成立したのだろうと推測され
る。
もう一人の永田耕衣の作品については、氏と交流のあった増田まさみ氏の評文を介して
紹介する。 「琴座」 平成7年9・10月号掲載の 〈「命熱し」の涙根と私〉 より。
※
(略) 『自人』 の「後記」にも記されてあるが、氏はこの度の地震被災から救ってくれた近
隣や周辺の人々の「親切心」を〈法哲集〉にみる 《品》 と認識し 《親切品》 なる造語を生み
出された。
「 《自人》 は斯くの如き有事に、純粋に 《泣》 くことのみが可能である。超虚空で泣く事
が出来るのだ、と思う。 《虚空》 よ、思う存分泣いて見よ。火よ水よ 《自人》 よ、糞尿に
《跋》 よ、 《寿》 の長短様よ。 《未完》 よ、惚けよ。死よ生よ、泣くほど死ぬのだ」。
「泣くほど死ぬのだ」の慟哭の奈落を、私は見逃したくはない。この超孤独を。
白梅や天没地没虚空没
共に死ねぬ生(なま)心地あり裏見の梅
枯草や住居無くんば命熱し
あの日、激震はすべての虚空(実存)を潰し均していったのだ。押しつぶされた人々はな
ぜあのようにきびきびと働き、元気で笑っていたのか。それはまさしく、元気で笑っているし
かないという超現実的現象にほかならない。
ウグイスや分かってとぼけて居りました
虚空窟自人の放屁度(たび)笑い
自演枯れしてや葎は柳なり
藪柄に埋もれて居れば鯛まみれ
放せ俺(わい)は昔の西日だというて沈む
俺(わい)ガ秋ノ暮ヤ御殿ヤ*ドナイヤイウネン
耕衣さんは、ときどきこんな見栄を切って見せてくれる。花形の虚仮威しの演技や紋切り
型のストーリーに陶酔する衆目を、一瞬宙に舞わしてしまうような茶化しである。
「茶化し」 とは、せつなくも孤独な真実である。氏は震災後開催された「耕衣大晩年の会」
において、こうも述べられた。
「 『ヒズミカル』 という言葉を発見しました。 〈永遠〉 を茶化すと 『ヒズミカル』 になる。
『歪み』 が微妙な永遠の魅力を湛えて、いつでも我々の眼前に現れる。それが芸術の有
り難さです 」。
すなわち、 「歪み」 である 「芸術」 が、唯一 「永遠」 の生神(孤独)の癒しであることを、
永田耕衣は説かれたのだった。(略)
※
増田まさみ氏と永田耕衣にとっての大震災は、このような認識で消化され回想されてい
る。氏が指摘するように、永田耕衣の思想の根底には東洋的仏教的境地がある。そこか
ら、涅槃の思想などを頂点とする悟り・解脱の境地とは別の 「自人」 という実存的言語を
もって、 「虚空」 であることの中に、抜き差しならぬ生を抱え込んでいる自らの命のあり方
を、自己韜晦的な 「諧謔」 とは違う、 「茶化し」 という独自の呼吸で表現しているのだ。
この二人の「震災詠」は、後年発生した東日本大震災を経た私たちに、震災後の詩想を
深めてゆくための、多くの示唆を与えてくれているのではないだろうか。
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