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 小熊座・月刊


   2020 VOL.36  NO.422   俳句時評



      震災後詩学の彼方へ ―空無の強度

                              武 良 竜 彦



  三様の厄災句が私の頭を離れない。三様とは戦禍である東京大空襲と、震災禍の阪神

 淡路大震災、そして東日本大震災時における原発禍のことである。順にそれを象徴して

 いるように私が感じる句を以下に列挙してみる。

   いっせいに柱の燃える都かな       三橋 敏雄

   白梅や天没地没虚空没          永田 耕衣

   八方の原子爐尊(たふと)四方拝     高橋 睦郎


  この「俳句時評」で「震災詠」批判を書いてきたが、その間、私の念頭にあり続けたのが

 その対岸にある俳句表現の在り方としての、石牟礼道子俳句とこの三句だった。表現に

 向かう姿勢、視座が東日本大震災後に量産された震災詠と決定的に違うのだ。厄災・災

 害詠は自分の身の上に降りかかる被害者目線による嘆き節に陥り易い。だがこの三句は

 災害によって可視化され、露わになる人間の営みの、一種の虚妄性(空無性)と禍々しさ

 への眼差しがある。

  三橋敏雄の句には、大都市なんていうものはすぐ発火し燃え尽きてしまう柱の如きもの

 だったという怜悧な眼差しを感じる。永田耕衣の句には天地と同時に没したのは「虚空」で

 ある命の在り様そのものであったという「ヒズミカル」な「茶化し」を感じる(前時評の耕衣の

 言葉参照)。

  そして異彩を放つのが、高橋睦郎氏の原発禍詠である。この句は総合誌「俳句」の震災

 翌年の年頭句の一つとして発表され、後に句集『十年』に収められることになる句である。

 何故、彼は原子炉を尊いものとして「四方拝」をするという表現をしたのだろうか。直感的

 に「アイロニー表現ではないか」と思ってしまうところだ。

  そう思いがちなのは、「尊さ」ということについての歴史的な含意を、私たちが喪失してい

 るからだ。

  古来、敬いは恐れだった。天変地異を起こす神に対する畏怖の念が根底にあり、その荒

 ぶる神力を鎮めるために人は祈り奉ったのである。「尊ぶ」の根源はそこにある。

  禍々しく畏れ多いものが尊いのだ。

  自然そのものを包摂する神の力は、人に恩恵をもたらすものでもある。だが何かその摂

 理に不具合が生じると、人を根こそぎ死に追いやる側面を持つ。

  このように両義的なのだ。

  この両義性― その恩恵に預かっていたある日突然、「神」は八方を人の住めない荒涼と

 した場所にしてしまう。

  そんな両義性を持つ「神」のような、「恩恵」と空恐ろしい「厄災」を齎す、誰も表現できな

 いでいた原発禍を、このように俳句で表現し得た力量には脱帽する他はない。

  彼が書いた別の視座からの詩を以下に摘録する。

      ※

  思いをひそめよう原子力とは何だったのか

  母なる自然の子なる人間への窮極の贈りものか

  子が母を襲い孕ませて引きずり出した水子ではないのか

  呪われた鬼子を牢に閉じこめ強制して働かせつづけ

  力尽きると生き埋めにしてきたのが事実ではないのか

  埋められた生殺しの屍体がいつか息を吹き返し

  復讐する不安と恐怖とを封印してきたのが真相ではないのか

  いま秘密の襞襞が発かれようとしている 

  (「いまここにこれらのことを」「現代詩手帖」2011年6月号より)


     ※

  原発に対する戦後社会における私たちの深層心理まで抉り出しているように感じる詩で

 はないか。

  彼は震災が起きた2011年の「俳句」七月号に、「秋近し50句」と題して、震災詠を含む

 俳句を発表している。その中にも原発禍を詠んだ次の句があった。

  やすらへ花・海嘯(つなみ)・兇火(まがつひ)・諸霊(もろみたま)

  「やすらへ花」と「諸霊」という鎮魂の辞で、「海嘯」と「兇火」=原発禍を挟み撃ちにした表

 現だと思われる。

  七月号掲載ということは、この50句を五月以前に編集部に渡しているはずであり、作句

 されたのはそれより以前、つまり三月の震災の直後には、高橋睦郎氏はこれらの句を詠

 んでいたことになる。あの時すでにこのような独自の視座と主題性を持つ句を詠んでいた

 のである。

  高橋修宏氏が自身の責任編集発行する俳誌「575」の「02」号(2019年1月刊)で、

 「空無の強度―高橋睦郎の震災詠をめぐって」と題して、高橋睦郎氏のこれらの俳句作品

 について、鋭く深い論考を発表している。

  敬意を表してその論考の一部を以下に摘録する。

     ※

  ……ふたたび私は、睦郎の一句にある「やすらへ」というカタストロフへの静かな呼

 びかけへと引き戻される。あたかも託宣のような呪文は、誰のものであるのか。い

 ったい誰が発しているのか。作者であるように見えながら、それは、すでに作者を超

 えた空無と言うべき非人称からの呼びかけであったのではないのか。

  そう言えば睦郎は句集『花行』(2000年)の自跋において、次のように記してい

 たではないか。/

  花を見ることは自然を見ること。自然の本質でもある空無を見ること。竟には自分

 自身空無であることを悟り、空無である自然と一致すること。/


  高橋睦郎にとって3・11の大震災とは、まさに空無であること、その強度が、その

 豊饒こそが試されたことにほかならなかったのではないだろうか。 (傍線=武良)


     ※

  自然も人間も俳句も「虚」の器である。自己の内部にそれを見据える「震災後詩学」を育

 む視座がここにある。

     ☆

  私の「俳句時評」担当は今回が最終回です。

  永らくのご精読とお励ましを有り難うございました。