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2020/8 №423 小熊座の好句 高野ムツオ
俳句に作法と呼ばれるものは基本的にはない。形式以外にルールがない自由さこ
そ俳句である。ただし、作るタイプは、人それぞれ異なる。想念を凝らすのが家籠り
派、自然事象と向き合うのが徘徊派とでも呼べるだろう。題詠派と嘱目派とも区別で
きる。一方の作り方にのみこだわる俳人もいるようだが、両者はそれぞれが重複した
り補完し合ったりしているのが一般的だ。旅に死すことを目指し実践した芭蕉は、後
者だが、歌枕を通しての旅でもあったわけだから、題詠派としての面も合わせ持って
いた。子規はもともと徘徊派、中国に記者として赴き俳句を作ってもいる。だが、宿痾
の肺結核のため「病牀六尺」の世界で俳句を作らざるを得なくなり、やむなく家籠り派
となった。子規ほどの深刻さとはかけ離れてはいるが、新型ウイルス禍の現在、多く
の俳人は、それなりの窮屈さを味わっている。
まなうらにまだ見ぬ山河髪洗ふ 阿部 菁女
「まだ見ぬ山河」はまだ訪れたことがない山河、つまり未踏の地ということだろう。だ
が、私などの偏屈に言わせれば、山河、つまり、自然事象は刻々姿を変えるわけだ
から、同じ景とは二度と出合えないわけで、次の瞬間、目に触れるものすべてが 「ま
だ見ぬ山河」 ということになる。さらに 「山河」 には故郷との意味合いもある。すでに
この世にはない母なる山や河。旅することとは、つまりは、ついには帰結不能な母胎
希求の営為ではないか。頭を垂れうなだれ髪洗う姿が、そんなことまで想像させる。
土踏まぬ一日の暮れて豆の飯 小笠原弘子
夕牡丹けふは何日何曜日 田中 麻衣
この二句も家居を余儀なくされている人の作品。もっとも、それがウイルス禍のせい
とのみ判断する必要はない。高齢とも病のせいとも受け取ることができる。前句の発
想は取り立てて新しいものではない。多くの人が味わったことのある一人居の日常的
感懐。しかし、「豆の飯」 がさまざまな連想を誘う。鮮明に浮かぶのは、かつて傍にい
たであろう父母や兄弟姉妹の笑顔や歓声。豆の飯の湯気の向こう側にそれらが揺ら
ぎ見え聞こえてくる。後句のとぼけ具合もまたユーモラス。続けて 「昨日は何を食べ
たっけ」 と付けたい誘惑に駆られる。このユーモアは孤独感を表裏としているが、そ
れを 「夕牡丹」 に溶け込ませているところが、この句の魅力だ。年老いてこその妖婉
が滲み出ている。
梅花藻の首出して咲く地蔵川 足立みつお
滋賀県米原の地蔵川が梅花藻の生育地として名高い。だが、この句に限っていえ
ば、咲き乱れた梅花藻はふさわしくない。たとえ、当地であっても観光化される以前
のひっそりとした流れを想像したい。実際、地蔵川という名は全国各地にある。川辺
に地蔵が祀られていたとか、川から地蔵菩薩が見つかったとかが、その名の由来と
聞く。川に地蔵となれば当然水子供養。すると首出した梅花藻は誰の化身か、いうま
でもなかろう。これ以上鑑賞すれば高僧として地元で知られる作者に礼を欠くことに
なるので止める。
均整のとれたる姿蠅叩 津髙里永子
つい、平均台に乗っている蠅叩きを想像してしまった。だが、体操選手と違い、蠅叩
きは残酷な存在。いや残酷なのは、それを鞭のように振るう人間の方か。
虹立てり虹消えし後の身中に 村上 花牛
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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