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 小熊座・月刊


   2020 VOL.36  NO.426   俳句時評



      「10年目の原爆俳句」考②
            「浦上天主堂」の記録

                           樫 本 由 貴



  以前、私はとある作品依頼を受け、そのために原爆ドームを吟行した。平日の平和公園

 に、観光客はまばらである。代わりに、小学生の集団が自然観察したり、サラリーマンが

 自転車を平和の灯の前に停め、合掌していたりする。

  福間良明は、被爆地の広島や「特攻の町」として知られる知覧を戦跡(戦争遺跡)、原爆

 ドームなどの戦争の痕跡を残す「現物」の建造物を遺構と呼ぶ。戦跡を訪れたとき、私た

 ちは戦争の記憶の一端に触れる。戦跡の「現物」や土地そのものが提示する唯一無二の

 真正さを、福間はベンヤミンの概念である「アウラ」になぞらえる(『「戦跡」の戦後史 せめ

 ぎあう遺構とモニュメント』岩波現代全書・2015)。

  私は原爆ドームを〝吟行した〟が、戦跡を訪れ、そのアウラに触れたために、意図せず

 〝句が出来る〟ことも十分にあり得る。むしろ倫理的なのは、後者だと思う向きもあるだろ

 う。東日本大震災の被災地を訪れ、「書けない」と言った俳人は少なくない。彼らは被災地

 の人々や風景を、書かれる客体とすることに違和感を抱いたのではないか。一方で震災

 句の中には、替えのきかない無二の震災表象もある。

  今回は、原爆俳句アンソロジー『長崎』中から浦上天主堂の句を取り上げ、その俳句の

 記録性を論じる。これらの句は戦後、浦上天主堂が書かれたことの意味が変わり、私たち

 に戦災や自然災害を表現する意味を考えさせる。

  『長崎』 にはキリスト教のイメージと結びついた句が 『広島』 と比べて多い。浦上の「アウ

 ラ」が我々にそう喚起させるのだろう。数字で見ると、キリスト教に関連すると思われる句

 は『広島』で全体の約1%なのに対し、『長崎』は全2,436句中、289句、全体の約12%

 出現する。具体的には、前書きに「浦上天主堂」と付したり、天主堂を「聖廃墟」と言い換え

 たりして用いている。他に、「聖玻璃」「聖像」「ミサ」なども句中に頻出する表現である。「聖

 玻璃」は、ステンドグラスのこと。関連性を匂わせ、句の中に直接現れてはこないものもあ

 る。


      浦上天主堂跡にて

    祷るがに天使像欠け西日の中          小林 康治
    
      浦上天主堂趾

    片削ぎに塔なほ立てり帰る雁           下村ひろし


  康治、ひろしともに、浦上天主堂を訪れての句。康治の句、爆風によって損壊した天使

 像が並ぶ天主堂。無論、天主堂も全壊しており、それを了解していると「西日」はステンド

 グラスや屋根を通してではなく、直接天主堂に注いでいると分かる。ひろしの句、天主堂は

 双塔の鐘楼を持ち、その大きさは当時東洋一と言われたが、25メートルあった双塔も爆

 風によって倒壊した。「片削ぎ」の塔から空へと目を移した後の「帰る雁」には、痛切な思い

 がする。

  1949年、長崎市長の諮問機関として「原爆資料保存委員会」が発足した。保存すべき

 資料の中には、被爆当日「ゆるしの秘跡」という儀礼を行うために参集していた信徒が全

 員亡くなった浦上天主堂も含まれていた。だが、2020年、この浦上天主堂は近くの小川

 に吹き飛ばされた鐘楼の一部などを残して、現存しない。

  実は、廃墟となった浦上天主堂は1958年に取り壊され、1959年に再建されている。

 1955年に康治やひろしが見た天主堂と、今我々が見るそれは違うものなのである。195

 5年時点では、長崎の被爆の実態を示す重要な遺構だった浦上天主堂の保存は疑うべく

 もないことだった。1958年、保存から取り壊しへと急に方針を転換した政治の動きは、高

 瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社・2009)に詳しい。

  被爆により廃墟と化した天主堂を見て作られた『長崎』の収録句は、その土地を訪れて

 の句が戦災や遺構を記録した貴重な事例といえる。今『長崎』を読むとき、我々は、被爆・

 倒壊・撤去・再建と、その歴史を知って読む。すると、1955年時点では浦上天主堂ととも

 に平和を希求する一冊であった『長崎』が、失われた浦上天主堂のアウラを体験した人々

 の記憶を閉じ込めた希少な一冊に変貌したことを理解するのである。

  広島は、戦後75年を経て、原爆遺構である旧陸軍被服支廠の取り扱いを議論すること

 となった。被爆当時の惨状は峠三吉『原爆詩集』(ガリ版・1951のち青木文庫・1952)の

 「倉庫の記録」「仮繃帯所にて」などに描写されている。既に三棟あるうちの二棟の撤去は

 決定した。

  来年、発生から十年を迎える東日本大震災の遺構も、おそらく浦上天主堂や旧陸軍被

 服支廠と同じく、時を経て再び議論の俎上に上がるだろう。遺構は「現物」であり、当時の

 出来事を眼前に示す唯一無二のものだ。ゆえに、出来事の体験者にはそれを〝思い出さ

 せ〟てしまうし、建造物である以上経年劣化し、耐震性の不安を抱え、保存のための費用

 も掛かる。

  だからこそ、吟行であろうがなかろうが、その土地を訪れた「いま・ここ」を書く文芸形式

 の俳句が、思いもよらぬ形で希少な記録を産むことがある。10月現在、宮城県俳句協会

 が企画中の『十年目の今、東日本大震災句集 わたしの一句』もまた、その可能性を秘め

 ている。目先の俳句の出来だけでなく、震災表象の集成となることを望む。

  ところで、ナガサキの被害を書くときに、キリスト教表象が欠かせないことは確かだが、一

 方で、ナガサキの被害は完全にキリスト教表象に落とし込めるものではない。「原爆は神

 の御摂理」とする永井隆の言説に対しての批判は前回述べた通りであるし、「祈りの長崎」

 のイメージが強化されれば、長崎・浦上原爆の体験者の「祈り」以外の態度は緩やかに見

 えにくくされてしまう。


    ミサの鐘ひゞけ世界へ原爆忌           近藤 竹市

    葉ちかゝる夕日手に染め神父祈り続ける    稲水 播洲



  掲句、「ミサ」や「神父」は、死者への鎮魂の祈りを捧げている。竹市の句はスローガン的

 な表現だが、55年に盛り上がっていた原水禁運動との兼ね合いも思わせる。しかし、こう

 した句に、康治やひろしの記録性の強さを見出すのは難しい。また、「祈り」の語を読めば

 読者はやはり、〝広島とは違って怒りをあらわにしない長崎〟を想起するだろう。『長崎』

 では、表れる地名に「長崎」「浦上」の二種類が見られるが、「祈り」の表現は、特に「浦上」

 の地名とともに表れる。次回は、「長崎」という地名が用いられ、「祈り」のイメージを脱しよ

 うとする句を検討する。




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