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2020/12 №427 小熊座の好句 高野ムツオ
以前にも述べたと記憶しているが、秋風には二つの面がある。一つは秋の訪れを
知らせる風、もう一つは万物を零落枯渇させる風である。前者は「秋の初風」とも呼
ぶ。秋風を詠った和歌は万葉時代からあるが、そこでも、この二面がそれぞれ表現
されている。初秋の風もむろん、凋落の予感を伴うが、それ以上に暑さからの解放と
安らぎが湛えられている。疫病や食中毒の畏怖は今では想像もできないものであっ
ただろう。秋風の歌でもっとも著名なのは〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の
音にぞ驚かれぬる 藤原敏行〉である。面白いことには、この歌には「秋風」の言葉
や用いられていない。「秋立つ日に読める」という詞書から察すると、発想は暦の上
での秋ということなる。立秋を意識することで、蘆原を吹く風の音が変化し秋風を認
知したことになる。春夏秋冬を始め暦は人間が作り上げた概念である。その概念が
自然界のあり方の認知に作用する。私たちの感覚や感性はそうして磨かれてきた。
これはけっして季節感受だけでない。言葉で認知することすべてにあてはまる。私た
ちは自らが用いる言葉で限定された世界を生きているのである。森羅万象ことごとく
内なる世界に存在するということだ。
鶏卵の影を生みたる秋の風 土見敬志郎
その言葉が捉えた機微の一世界。作者は秋風を知覚した瞬間、秋風がもたらす影
を発見した。鶏卵の影はもともと鶏卵に備わっているはずで、暗闇では見えないだけ
である。真の暗闇もまた科学の概念の世界なのではないか。夏の間は夏の影があっ
た。だが、秋風の訪れが新しい影を生み、そこに新たな存在としてあらしめたのであ
る。
秋風に乗りて傘寿の儘ならず 永野 シン
「秋風に乗る」はよく耳にする表現で、風の心地よさ自体がこの修辞を生んだのだ
ろう。だが、この表現は鳥を運ぶ風であることと密接に関わる。唐代の劉禹錫に「秋
風引」という詩がある。そこでは秋風は雁の群れを送る風。政敵に敗れ、左遷され不
遇の生活を過ごしていた作者の都への思慕が「何れの処より秋風至る 蕭蕭として
雁群を送る」という二行を生んだのだ。つまり秋風には渡り鳥が乗るのである。掲句
もその情趣が下敷きとなっている。折からの風に乗ったのはいい、どこへでもいけそ
うな気分となった。だが、さすがに傘寿という齢だけは超えていけない、という自嘲の
ウイットの世界である。
アフリカにも秋風のありダチョウの眼 小野 道子
アフリカの季節感は雨季と乾季があることぐらい以外知らない。秋風が吹くかどう
か。だが「あり」と断定されるとアフリカなりの秋風が吹く気分になってくる。これも言
葉の不思議さ。その秋風を見る駝鳥の眼とくれば高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」。
あの詩に吹いている風は瑠璃色であった。
野菊より風の生まれて鬼子母神 神野礼モン
ひめむかしよもぎ除染夫の国訛り 植木 國夫
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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