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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.429   俳句時評



            連想とその鍵

                           及 川 真梨子



  タロットカードと俳句って似ているのでは?というのが前回の問いかけであった。季語を

 鍵に連想を広げて作り出す俳句と、カードの図柄を鍵に連想を広げて対象者の状況を読

 み解いていくタロット占い。さらに言うなら、季語もタロットの図柄も、専門的な知識の習得

 が必要であり、かつ当事者の実感が肝要、というのも共通している。

  例えばタロットカードの〈審判〉の図柄にはラッパを吹く天使が描かれるが、新約聖書の

 「最後の審判」の知識が必要であるし、それにプラスして占いとしての解釈も求められる。

 一方で季語も、それなりの専門知識が必要だろう。例えば〈鞦韆〉にある春の季感を解する

 には漢詩の知識や大陸の文化が求められるし、〈冬の蠅〉は日常会話的な文脈では単な

 る冬にいる蠅だが、季語においては動きの鈍さや尽きようとする命など、日常の言語から

 さらに深化したイメージが必要とされる。

  つまり、タロット占いができるようになるには、キリスト教やギリシア=ローマ神話の流れ

 を組む文脈を勉強し、占いとしての解釈を教本や先生などに教わり、しかし教科書どおり

 の解釈だけでは占う対象に対応できないため、自分自身のイメージの連想を鍛えなけれ

 ばならないのである。これは、古来の日本文化や渡来してきた中国大陸の季語の文脈を

 歳時記などで勉強し、その使い方を句会で教わり、自己表現として作品に鍛え上げること

 とやっぱり似ている。

  さて、そんなタロットカードだが、古典的な西欧の図柄に固執しないという動きもある。世

 界各国の神話や文化を反映させ、独自のカードを作る動きだ。それは、東洋の「禅」にイン

 スパイアされたものや、孔子や天帝、アフリカの民族をモチーフにしたものなど枚挙にいと

 まがない。個人的なインスピレーションを元にしたものも多数ある。カードを使った連想的

 な占いという点は押さえつつ、その図柄の内容は古典にこだわらない。あるいは、自分が

 所属する文化から元型的なイメージを引き出す選択をしたといえる。

  タロット占いにおいてインスピレーションの源泉を古典の図柄以外に求める者がいる。同

 様に考えれば、俳句においてインスピレーションの源泉、連想の起点を季語以外の言葉に

 求める者がいるということだ。

  これに関連して「小熊座」令和二年十月号に載った堀田季何さんの評論が非常に興味深

 かった。

  「世界俳句とは「切れを伴う有キーワード自在短律句」である。キーワードとは、使用する

 言語で強い連想喚起力を持っている言葉を指す。」

                    (堀田季何「明日も春を待つ 俳句の十年後問題(後編))

  世界に出れば季節、ことに日本の四季という仕組みは通用しなくなる。「切れを伴う有キ

 ーワード自在短律句」とは俳句を極限まで問い詰めたときの定義の一つだ。季語でも季語

 でなくても、強い連想喚起力を持っている言葉を選び作るのが俳句ということである。

  俳句が季語以外をキーワードとして作ることができるとすると、私の中には二つの選択肢

 が浮かぶ。

  一つ目は無季句を作るということだ。季節感を持たない言葉の中から、強い連想喚起力

 を持つものを選んでキーワードとするのである。だがこれはかなり難しい。なぜなら、連想

 喚起力とは作者と読者の共通認識によるところが大きいからだ。作るときにイメージが湧

 き出るだけでなく、読んだときに豊かな世界が広がるように言葉を探さなければならない。

 我々がよく使う季語においては、歳時記の季節という共通認識が世界を広げる力として使

 われているのだ。

    新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永 耕二

  例えば右の句で〈鳥渡る〉という季語には、秋に来た冬鳥の大海を越える生命力や、様

 々な鳥の種類を想像させるにぎやかさがある。それが、都会の人間が宿りながら墓標めく

 ビル群と対比され、句の味わいを深めている。季語の選択による俯瞰的な構図や静と動

 の対比も見事である。

  無季句を例に考えると、

    戦争が廊下の奥にたつてゐた         渡辺 白泉

    手をあげて此世の友は来りけり        三橋 敏雄

 のような、共通認識としての「戦争」という背景や、

    古い仏より噴き出す千手 遠くでテロ     伊丹三樹彦

 のような、宗教観念や「テロ」という社会性などにより、描いている映像以外の意味合いを

 引き出している。あるいは、

    しんしんと肺碧きまで海の旅          篠原 鳳作

    草二本だけ生えてゐる 時閒 時間      富澤赤黄男

 のように、季節感の無い言葉で共通体験を引き出す、あるいは極限まで抽象化し、読者の

 詩的体験を作り出すということになるだろうか。

  無季句においては、豊かな背景を持つ普遍性のある言葉を、季節以外から見つけられ

 るか、さらに、それを受け取って豊かな鑑賞ができるか、魅力的な課題が山積する。しかし

 難しいと言っても、自然や神話やグローバル化した社会など、世界規模で考えたとして題

 材はたくさんある。

  二つ目の選択肢は、歳時記に載っていない新しい季語で俳句を作るということである。

  なぜ、タロットカードは新しい図柄を求めなければならなかったのか。それは、西欧以外

 の全世界へ広まっただけでなく、自らのルーツに重きを置いた、実感に沿った繊細な感覚

 が、占いという感性を発揮するために必要だったからではないか。私たちはもはや、季節

 がその定型をなくし、暦文化を、住む地方の生活を見捨て新たな社会の中で生きている。

 季語を作るということについて私達は、実のところこれまで以上に求められているのでない

 だろうか。

  しかしこれも茨の道である。まったく「炎天」や「万緑」の力強さに敵う新しい季語など作れ

 るのだろうか。

  季語、新しい季語、無季句におけるキーワードということを考えてきたが、そもそもなぜ、

 俳句はキーワードによる連想を求めるのか。それはひとえに短詩としての世界の広さと深

 さを確保するためだろう。限られた語数では連想してもらわないと鑑賞は深まらない(もち

 ろん発句の成り立ちから、卵が先か…という議論はあるだろうが)。

  では、なぜ俳句は短いのか。これに対する理由はさっぱり思いつかなかった。少ない言

 葉で詩の世界を広げることや、最短で真理を言い当てる試みを目指した詩が、俳句の本

 質であるのかもしれない。




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