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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (130) 2021.vol.37 no.434
影のため光りが判る藪椿 鬼房
『地 楡』 (昭和五十年刊)
よく練られた表現である。降り注ぐ日の中の大ぶりな藪椿、そんな景が立ちあがってきた。
鬱蒼と茂る葉の中に、ぽちぽちと鮮やかな花をつけている。日向にある花の色や日陰にあ
る葉の色が、光の中に浮かんでいる。燦々と春の日差しを受け、一木は深い影を宿してい
る。作者は、その「陰翳」に目を付けた。「影」と「光」である。影は光でもあり、光は影でもあ
る、どちらか片方では存在できない。
同句集の集中に〈生き死にの死の側ともす落蛍〉がある。この句に描かれているのは「生」
と「死」。落蛍の灯す光が「死の側」にあると感じた瞬間に、いわば「生の側」にいる自分の影
の印象を鮮明に感じている。作者は、藪椿の影から死のイメージを喚起されたのかも知れ
ない。その影を見つめるからこそ、光が判る、つまり生のイメージが鮮明になるのである。
掲句は、平板な写生や取り合わせとは一線を画す表現である。それは、安易に着想に飛
びつかず、着想を丁寧にろ過して表現に落とし込んでいるからであろう。自分は何を表現す
べきか、心の中で藪椿の命を掌に乗せてじっくり見つめながら考えている。その陰翳を、そ
の命の重さを十七音にするため。
(抜井 諒一「群像」)
鬼房第四句集『地楡』の中の「韮の花」にある一句である。 ん? と思った句である。 陽が
当たれば当然影が出来る。その明るさを詠んだのではないのである。真逆な見方なのであ
る。
何か世に訴えたいことがあったのか? 深い藪椿の群生、光が入りにくいだろう。
鬼房の句に藪椿の句をたまに見る。都会の中央の文壇からは遠い地方暮らしの自分を
重ねているようだ。 年齢的にも 俳句だけを生業とするには難しい。 病弱な体に鞭打って
目差す物に向かい心を鬼にして自分を鍛えた時期だったのだろう。
藪椿が毎年咲く。 その奥に届く光を受ける藪椿は鬼房自身であるような気がする。鑑賞
から離れるが 句集名について一言。
地楡の歴史は古く 日本では吾亦紅のことである。 影の淡いことが美しく楚楚とした姿が
印象的な植物だが昔から薬材として用いられ この先 我々の未来に役立つ植物であると
期待できる。 鬼房の知識の深さ、広さに驚くばかりである。 句集名に吾亦紅と付けず『地
楡』としたことに肝銘を受けた。
自分に厳しい鬼房には 身内を詠ったものも多い。一人一人を案じつつ句にしたものは社
会派俳人佐藤鬼房の温かい心も感じられて 私には嬉しい。
(中鉢 陽子)
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