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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.435   俳句時評



            擬人化における上下関係

                           及 川 真梨子



  以前、「俳句はアニミズムだ」ということを、日本人の信仰心におけるアニミズムとして見解

 を整理した。

  自然信仰や祖霊崇拝など、アミニズムは宗教的意味合いを持つ。宗教といっても、いわゆ

 る教義・教典があって信仰を深めるという宗教のあり方ではなく、日本人の無節操と言われ

 る宗教観――神社に初詣に行き、お盆を迎え、クリスマスを楽しむ――のようにもっと文化、

 生活としての側面の強いものだろう。その「なんでも神様」という無節操の根底にあるのがア

 ニミズムでもある。信仰という言葉から感じる敬虔さ、崇拝の気持ちというよりは、生活やふる

 まいに対して無意識に浸透している感覚だ。季節・自然と密着している俳句や季語であるか

 ら、句の読解において自然へ信仰を求める感覚やアニミズム的価値観が入り込んでいるの

 ではないか。これは一般的な論というより、多少なりとも私にはあった、という筆者の個人的

 傾向の発見でもある。全員が全員、「自然はありがたいもの、拝むもの」というような宗教的

 感覚で俳句を捉えているとは思わない。ただし、季語=自然=無意識のアニミズム=俳句の

 信仰的読解、となる図式も、全否定するところでもないだろう。

  ところで、そもそも兜太の語るアニミズムとは一体どのような感覚なのだろうか。それはどう

 やら「なんでも神様」、「自然はありがたいもの、拝むもの」というような感覚とは違う、原始宗

 教に立ち戻る、非常に繊細な感覚のようなのだ。

  それについて、いとうせいこうとの対談 ( 『他流試合―俳句入門真剣勝負!』 ( 講談社、

 2017、文庫にて改題 ) )における、次の二点が興味深かった。

  一つ目は、俳句の形式の特徴である、「切字は意味を多重化する」ことである。

  例えば〈上五や切れ+十二音〉というような典型的な俳句の形がある。夏井いつきもテレビ

 でよく語るように、カットが切れる、映像が切り替わるという説明も正解には違いない。対談で

 はもう一歩進んで、意味が多重化されることにより、上五と中七下五それぞれが浮き立ち、そ

 れぞれが主体となる効果があると指摘している。

  例えば、芭蕉の次の句を例にして考えてみよう。

   荒海や佐渡に横たふ天の川

  読者はまず、荒海を脳内に浮かべ、次に天の川を思い浮かべる。読み通した後に、佐渡の

 荒海の夜空に大きくかかる天の川を想像することも一応できる。ワンカットというか、一枚絵と

 しての鑑賞だ。だが、切れの効果を活かして鑑賞すれば、荒海を想像し、感情移入し、共感

 して鑑賞した後に、天の川についても、それを主体として読み込んでいく。その二つを独立さ

 せ、どのように重ね合わせるか、という響きを味わうのである。

  荒海と天の川それぞれを主体とする、というと意味が取りづらいかもしれないが、つまり、映

 像上の焦点、いわば主人公が二つ提示されているのである。それが俳句という形式によって

 重ね合わせられ、ぶつけられたときに生じる響きを読者が自由に楽しむ。これが、俳句の切

 れの特性を生かした鑑賞といえるだろう。このときの、焦点が二つあり、それぞれに浮き立っ

 ていること、それを「多重化」というワードで説明しているのだ。取り合わされた句をどのように

 鑑賞するかは句の中では説明されない。それは読者に委ねられており、その点で切れ字は、

 曖昧の美意識を喚起するとの兜太の指摘もある。

  二つ目は、アニミズムにおける「上下関係の生まれない擬人化」という指摘である。

  兜太曰く、「俺なりの理解では、アニミズムというのは個々のものに具体性を感ずるというこ

 とがひとつの条件だと思うんです。それからその個々のものに、霊魂とか精霊とか言うものを

 感ずる、それがふたつめの条件だと思う。」とある。

  意思表示を確認できない木や石やその他のものに霊魂を感じ、それぞれを主体として俳句

 作品にすることは、ある意味では擬人化とも言えるだろう。だがそれはどうやら、「上下関係

 の生まれない擬人化」を指すようだ。

  兜太は『他界』(講談社、2014)において、一茶の次の句を例にしている。

   やれ打な蝿が手をすり足をする

  「この一茶の有名な句を学校の先生方は慈悲心から出た句だという。生き物をいたわれよ

 と一茶が教えようと思って作った句だなんて言う。(中略)慈悲だって言っていますが、そこに

 は人間のほうがハエより上だとあらかじめ規定していますでしょ。そうじゃない、一茶にとって

 は自分とハエとの間に上下関係はないんです。」

  もともと筆者の個人的な感覚として、擬人化の俳句、あるいは俳句作品の中の物に対する

 妙な上から目線、というのが気になっていた。その感覚への一つの解答を得たのが前述の

 引用部分だった。

  弱い立場のものを大切にすることや、憐れみや格下への慈しみの気持ちは、当然善意から

 出発するものだから、批判すれば一定の反発のあることだと思う。だが、例えば、自然物や

 俳句に読み込まれる対象は、弱く、守ってもらわなければいけない存在なのか。そして反対

 に、信仰の対象としての自然物は「ありがたいもの、拝むもの」と持ち上げるものなのか。そ

 こを否定する、アニミズムにおける「上下関係の生まれない擬人化」という指摘は非常にしっ

 くりした。

  アニミズム的に自然が神であるなら、我々も同等の存在であり、双方を持ち上げたり引き

 下げたりせずに感じとるということ。あるいは、対等であるということは敬意を払うべき存在な

 のだという、一見難しい感覚がここにはある。自然物ばかりではない。俳句の対象となるあら

 ゆる物、ビルやコンクリートや人工物、生活の端々に登場する物、それぞれが、俳句の構造

 によって浮き立ち、我々と同等であることを認識させられる。「上下関係の生まれない擬人

 化」は、兜太の「俳句はアニミズムだ」という言葉を理解するのにかかせない感覚だろう。以

 上が筆者なりの整理である。

  それにしても俳句の切れとは、アニミズム云々を抜きにしても、あらゆる物に対して、ただ

 「ある」ということを運命づける。形式としても肯定の強制力があるかもしれない。




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