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 小熊座・月刊


   2021 VOL.37  NO.438   俳句時評



   現代で恋をし、子供を産み、それを詠む〈私たち〉

                           樫 本 由 貴



  『現代詩手帖』10月号は注目の一冊だ。約10年ぶりの短詩型特集には佐藤文香

 ・山田航・佐藤雄一による座談会、歌人・俳人による詩作品全八作、そして10名の

 論考が収められ読み応えがある。座談会では佐藤文香が2010年代を「俳句好きに

 よる俳句の時代」と定義し、代表作家の一人に生駒大祐を挙げた。どう俳句というジ

 ャンルに貢献するかを第一とする生駒の実践が今後どれほど重要になるかは、俳句

 を中心に据えた論考が四本あるうち安里琉太、西村麒麟、福田若之の三名が彼の名

 を出したことからも窺える。

  生駒大祐は今年8月、大塚凱と電子版同人誌『ねじまわし』第二号を刊行した。筆

 者は今まで日の当たってこなかった句集を読む企画「読んだことのない読書会」に部

 落解放運動の旗手であった土方鉄の句集で参加させてもらった。生駒は土方の句集

 に対し表現の拙さを指摘したうえで、一方で句集が土方の半生を反映し、さらには部

 落解放運動と接続することで俳句以外の真正さを持つために、評価を留保せざるを

 得ない苦しさを吐露した。貪欲に表現の新しさを求める生駒の態度は、詩人・鮎川信

 夫による詩集『死の灰詩集』(現代詩人協会編、1954)への批判を想起させる。

  鮎川の論旨はこうである。第五福竜丸事件を背景に反原水爆のイデオロギーの下

 に刊行されたこの詩集は日本文学報国編『辻詩集』(八紘社杉山書店、1943)と

 同じ構造であり、国民に広く共有される感情に追随する仕事は詩人の社会的責任を

 果たしたことにはならない。詩人は詩表現を高めることを第一とすべきである――。

 中野和典の整理に従えば所謂「死の灰詩集論争」の問題は「芸術性と社会性とがぶ

 つかり合う地点での詩(文学)の位相」にあった。『死の灰詩集』賛同者と鮎川との

 違いは、核実験の被害を〈私たち〉の被害と受け取るか、そうした共同性から表現レ

 ベルで逃れようとしたかである(『〈原爆〉を読む文化事典』青弓社、2017)。

 これは詩集賛同者と鮎川のどちらが正しいかという話ではない。詩表現の高みを目

 指すことを詩人の使命とする鮎川のスタンスにも、社会的問題に接続していこうとす

 る詩人たちの営みにも妥当性がある。

  生駒の同世代で、現代における社会的問題、なかでもジェンダーの問題に先進的

 な俳人としては神野紗希が挙げられるだろう。しかし神野の思想と句作にはギャップ

 がある。『現代詩手帖』の松本てふこ「神野紗希の謎」では『すみれそよぐ』(20

 20)所収の〈恋をして子を産んで雲雀野にキス〉に対し、恋をして子供を産むいか

 にも「女性的」な主体の振る舞いが皮肉なく表現されることへの違和感が示される。

 この論は青本瑞季による神野の『女の俳句』(2019)への書評(『俳句αあるふ

 ぁ』2020年春号)を踏まえて書かれたものである。青本は『女の俳句』が「らし

 さ」からの解放を謳いつつ「女性らしさ」の定義や、抄出句が「女」の句と読める

 要因を検討していない点で、「女らしさ」の表象を可視化するに留まっていると指

 摘する。非常にクリティカルであり、一読に値する。

  『すみれそよぐ』は現代俳句協会青年部第168回勉強会でも取り上げられた。会

 の最後には神野に感想が求められたのだが、そこで神野は「この句集は神野一個人

 のものとして受取ってほしい」旨を述べた。活字化されていないがよく覚えている。

 この言葉に対し、表現された/されてしまったものを公的なものとして捉えないこと

 は難しい、そう告げるのは簡単だ。だが外山一機は同書の書評において神野紗希の

 句作が良妻賢母主義的なジェンダー観を再生産する危険性を指摘しつつも〈今日も

 守宮来ている今日も夜泣きの子〉で夜泣きの子をあやしながら「守宮」を見つける神

 野の「余裕」は子育てという今日的な課題を多分に含む「過酷な状況からかろうじて

 (筆者注=神野自身を)救い出すほとんど唯一の手立て」と一定の理解を示す(「神

 野紗希は溺れない―『すみれそよぐ』について―」ブログ「俳句ノート」2021・

 3)。この指摘は神野ほどの作家でも創作にケアの側面があることを示唆していよ

 う。

  こうした側面をないがしろにすることはできない。確かに創作に自己へのケアが伴

 う場合、そこに俳句表現の詩的な新しさを見つけるのは難しいことが多い。しかし例

 えば原爆俳句を俳句ではなく原爆文学の文脈に置き直した時に、表現として目覚ま

 しいものがある場合も少なからず存在する。

  ゆえに、松本や青本の指摘が妥当だからこそ、神野の表現の拙さや、フェミニズム

 的な欠点を指摘するのはもはや不毛に思える。神野は『すみれそよぐ』を一個人の

 句集として見てほしいといった。それは女性への抑圧にあらゆる角度から抵抗する

 〈私たち〉――つまり最も先進的なフェミニストたちとは連帯できないことの表明

 だ。なぜなら『すみれそよぐ』に描かれる人生は、句集中に限って言えば〝フェミニ

 スト的〟な人生ではないから 。フェミニストが〈恋をして子を産んで雲雀野にキ

 ス〉を認めないなら、神野紗希はフェミニズムから脱落するしかない。神野を論じる

 には新たな補助線が必要だ。神野がTwitter で発表した〈逢わざるも逢うも地獄の

 桜貝〉をはじめとするとする連作は、新型コロナウイルス感染症流行下の社会に

 おける、フェミニストとは別の〈私たち〉を代表する作品だった。ともすれば落涙し

 そうなやりきれない日常の中で何とか俳句だけは詠めたという神野のこの作品を、

 ひいては神野を論じるためには、ケアの視点と新たな〈私たち〉の想定が必要に

 なる。

  ところで神野をフェミニズムから脱落、させてよいのだろうか? 思想と表現の一

 致を過度に求めるのであれば、神野紗希のような作家に居場所はない。ならば「俳

 句好きによる俳句の時代」に、詩表現を高める事だけに執心する時代に、あらゆる

 〈私たち〉の居場所はあるのだろうか?




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