2021 VOL.37 NO.439 俳句時評
『証言・昭和の俳句 増補新装版』の重み
渡 辺 誠一郎
この度、増補新装なって『証言・昭和の俳句』(以下『証言』)が刊行された。昭
和という時代が遠くなったと思えば思うほど、重さを増してくるような一冊である。
本書は当初、俳句総合誌「俳句」(角川書店)誌上に、平成十一年一月号から翌年
六月号までの一年半にわたって連載されたものである。昭和という激動の時代を生
き抜いてきた金子兜太をはじめ、桂信子・鈴木六林男・佐藤鬼房・中村苑子・三橋敏
雄・古沢太穂・沢木欣一・津田清子・成田千空・草間時彦・深見けん二・古舘曹人の
各氏に、黒田杏子がインタビューをしてまとめたものだ。昭和の俳人たちの生々しい
肉声が魅力だ。これらは後に角川選書『証言・昭和の俳句』(上下)として刊行され
た。
黒田はこの企画について、「この本の構図は一言で言えば、学徒出陣世代の俳人
達に六十年安保の世代の黒田がじっくりと話を伺うというものでした。」(あとが
き)と呟くように書いている。書名にあるように、時代の証言ではあるが、それは
一つの世代から次の世代へと「俳句という魂」を引渡し、引き受けるという、いわ
ばある種の厳粛な口伝のようにも思える重い一冊といえる。
今回刊行され増補版は、新たに宇多喜代子、井口時男、関悦史、筑紫磐井、齋藤
愼爾など、俳人や作家ら二十人の書下ろしを加え、一層読み応えのある一冊になっ
た。
『証言』に参加した俳人の話には、種々の評がすでになされているので、ここでは
新たに収録された中から目にとまった二人の論考にふれてみる。
宇多喜代子は、「再読―過去は未来」と題して、「私や家族がそれぞれに体験した
時代の出来事、時代の感情、時代の気分、これを追想するとき強く思うのは、「過去
は未来」だということである。過去の始末を軽んじたところに人が不幸にならぬよう
な未来はないということだ。」と述べる。
われわれには現実から未来はなかなか見えてこない。未来は過去を通してかろうじ
て捉えられる。これは三橋敏雄の俳句、〈あやまちはくりかへします秋の暮〉の重い
時代認識にも通じる考えだ。『証言』は、未来への力になる。『証言』は、戦争に限
らず、昭和という時代の体験、そして諷詠したそのものが、今日のみならず、新たな
時代へのメッセージになって残るだろう。宇多は言う。「俳句への志のバトンが、戦
なき次の世、次の世につつがなく続くように祈るばかりである。」と。
しかし一方今日の世の状況を見るに、きな臭さが次第に増してきているようにも思
われる。小生はかつて、〈戦前の前も戦後や秋扇〉と詠んだが、再び暗い時代が繰り
返されることが、杞憂に終わればいい。「次の世」が戦いのないように強く思う。そ
の意味でも、昭和の時代の空気ととも生きた二十人の俳人の証言は貴重である。
筑紫磐井は、「『証言・昭和の俳句の証言』―『証言・昭和の俳句』は『史記』た
り得るか」と、少々大袈裟とも思える副題を付けている。初めに筑紫は角川書店の戦
略にふれ、『証言』の企画自体の時代性を明らかにして見せる。すなわち、雑誌「俳
句」の提唱した「「結社の時代」の七年間は、俳人に上達法ばかり考えさせ、俳句史
を考える頭脳を失わせていたのだ。」と捉えている。しかしこの「骨太」の『証言』
の企画が、新たな編集長に就任した海野兼四郎(もっとも長く編集長に就く)によっ
てなされることで、「角川の「俳句」とその良心が復活した」好企画の一つであった
と高く評価するのである。
『証言』は二十年ほどの前の話だが、一方現在の「俳句」の状況をみると気になる
こともある。やはり編集長は頻繁に変わり、俳壇に明確にヒエラルキーを作り上げ、
初心者向けの上達法を目的とした企画が比重の高い号も目につく。営業を抜きに編
集はないのだが、それでも現在の編集には少しの杞憂を抱く。
筑紫はまた、黒田の『証言』の仕事を、中国の前漢時代の歴史家司馬遷になぞらえ
る。司馬遷は正統な王朝の歴史や個人の伝記の他に、個人と集団の複合としての動
きを記述した「世家」の項目を設けることで、歴史を魅力あるものした。同じように
『証言』では、「大半が結社の創始者」である十三人を取り上げているが、黒田が
「個人の活動はその周辺の賛同者も巻き込んで始めて歴史を生み出すと考え
る」ところに、司馬遷の仕事の魅力との共通点を見るのである。その結果、個
人の肉声が、個人に止まらず結社の動き、そして戦後俳句史の流れを、生き生
きとしたものに伝えることができたと。司馬遷と黒田の比較論は小生の手には
負えないが、少なくても戦後俳句史を、十三人の俳人の肉声をもって、血の通っ
た「物語」としてわれわれの前に見せてくれた黒田の功績は大きいといえる。
その他「金子兜太と深見けん二」の章では、兜太の存在に、「戦後俳句史にそのま
まつながってゆく主体性」を見出し、深見が自ら諷詠を「題詠文学」と述べたことにふ
れるなど興味深い話を書いている。
最後に筑紫は『証言』の十三人の人選に、「現代俳句協会、前衛系」が多いのは、
角川書店の俳人への考え方の変化の結果であると述べている。つまり『証言』の企画
は、前衛俳句の俳人も含めて、「実力」を基本に据える契機となったとも指摘する。
しかし現在でも俳人協会賞と現代俳句協会賞との扱いの差は歴然としている。それ
が実力本位と言われれば話は終わりだが、過去の残滓のようにも思える。
いずれにせよ、「聞き手・編者」としての黒田の仕事は、一つの時代を画すところ
で編まれたすぐれた「実録」であることには違いない。しかし一方、このような時代
を背負うように一つとなって生きた、存在感のある俳人たちはもはや現れないの
かとも思えてくる。そんな気がするだけだが、もしそうだとすればそのこと自体が、
今の時代を象徴しているのかも知れない。『証言・昭和の俳句』を手にしてそんな
感慨を抱いた。
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