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2022/1 №440 小熊座の好句 高野ムツオ
鯨跳ね銀河を吸って暦果つ 𠮷野 和夫
主語がなくとも通用するのが日本語の特質の一つで、その利点を縦横に駆使す
るところに俳句の面白さが隠されている。よく知られているのは〈荒海や佐渡によ
こたふ天河〉の「よことふ」の解釈の例であろう。これが自動詞なのか他動詞なの
か、漢詩の影響なのか、芭蕉の誤用なのか、さまざまな論考がある。明治書院の
『新芭蕉俳句大成』には多くの解説が載っている。山口誓子は「天の川がみずか
ら横たう」と述べている。つまり、天の川自身が主語なのである。高柳克弘は「何
か大きな存在によって、「横たえられたと見ることで、天の川の威容を出した表現」
と指摘している。無限の宇宙を司る存在が、天の川を横たえたということになる。
この方が句のスケールが大きくなる。
冒頭に掲げた句も何を主語とするかが問題となるところだろう。「銀河を吸って」
いるのは何者か。鯨だろうか。その解釈は自然だろう。なかなかダイナミックな鯨
が想像できる。一句の主役は季語である基本から判断すれば残り少なくなった暦
自身が銀河を吸っていると読むこともできる。去りゆく一年という時間そのものが
悠久の銀河を吸っているのである。その端っこで今鯨が跳ねた。
毛皮店棚より尻尾多々垂るる 菅原はなめ
「垂るる」は自動詞だから尻尾自身が垂れ下がっていることになる。しかし、尻尾
はもともと主体ではない。本来は猿や犬が「垂らす」ものなのだ。しかし毛皮にさ
れた尻尾にはその主体が存在していない。この奇妙な動詞の使い方が、毛皮店
の棚に存在しない尻尾の主体の姿を連想させる。しかも、尻尾は元の持ち主の
意志を今も伝えているかのようである。温かいはずの店内に妙な寒気が走る。
日傾く雌かまきりの余生かな 佐川 盟子
雌蟷螂が雄蟷螂を交尾の際に食べる話をよく耳にする。いつでもそうする訳で
はないらしい。交尾相手を食べる習性を持つ種においても、発生する率は二割
ぐらいであるようだ。ただし交尾後に雄を食べた蟷螂の方がそうでないものより多
くの卵を産む。つまり、雄は自らの身体を犠牲にして子孫を残すわけだ。厳しい
自然の摂理といえよう。残った雌も産卵ののちまもなく寿命が尽きる。必死に生
き子孫を残し、最期のわずかな時間こそ本当の意味で余生と呼ぶにふさわしい
時間なのかもしれない。
赤子泣く夜の向日葵のうしろより 永野 シン
不思議な句である。現実的に解釈すれば夜泣きした赤ん坊をあやしに外に出
た場面だが、どうしても母親の姿がイメージできない。一人で赤ん坊が立っている
場面を想像してしまう。深読みだろうが、〈戦どこかに深夜水飲む嬰児立つ 赤尾
兜子〉が想起される。
棄民みな漂砂となれり煙茸 大河原真青
飛蝗ほど地球のことは知りもせず 佐藤 成之
焼芋や涙をふいて鼻かんで 中鉢 陽子
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パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
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