小 熊 座 俳誌 小熊座
高野ムツオ 佐藤鬼房 俳誌・小熊座 句集銀河星雲  小熊座行事 お知らせ リンク TOPへ戻る
 

 小熊座・月刊


   2022 VOL.38  NO.441   俳句時評


      俳句で「一回性」をやる

                           及 川 真梨子


  引き続き、金子兜太といとうせいこうの対談『他流試合―俳句入門真剣勝負!』

 (講談社、2017、文庫にて改題)を読み解いていく。

  兜太は昭和40年代の初めに小林一茶の句を読んで「不思議な感じ、何かぬめぬ

 めとした、生き物のような感じ」を得た。それは、農家で育った一茶のアニミズ

 ム的感覚から来たものではと言っている。農業に携わることは、自然のサイクルの

 中で、土から物を得て、土に還していくことだ。そして、人間が生きることは自然を

 破壊することである。現代の人間文明による環境破壊、例えば大気や土壌の汚染、

 森林破壊などとは、昔は規模が違うだろう。しかし自分の暮らしのため、土地を開

 墾し、自然物の命をいただく、ということは太古から変わらない。自然物を搾取、破

 壊したときの恐れと敬意は、自然信仰を生み出す。例えば畑拡張のために木を切

 り、呪いを避けるために儀礼を行う、または、山の動物を狩り、祈りを捧げる、これ

 がアニミズムだ。この意識が、乱獲を防ぎ、自然との共存も果たしていったといえ

 る。

  この一茶的なものが、俳句において、しばらく失われていた、あるいは無関心の

 中に置かれていた、それを呼び起こせよ、と主張しているのが兜太だ。

  「生きているという感じ、生きているものの生々しさみたいなもの、そのものの持

 っている不思議さ――ある意味じゃ不気味さ」これらが、俳句から失われていたと

 したら、その間に俳句で行われていたことはなにか。兜太は、今、あらかたの言葉

 が死に、形式化していると言っている。

  形式化された言葉とはどういうことか。それは、辞書で引いた言葉を想像すればよ

 いだろう。例えば「こおろぎ」という言葉を引けば、姿かたちや生態や、バッタ目コ

 オロギ科であることが説明されているが、それは、この世に存在するこおろぎを、一

 緒くたにしてまとめた言葉だ。辞書の言葉、形式化された言葉は、現実にいるこおろ

 ぎを指しはしない。例えば私が昨年の秋の暮れに、自宅の玄関の脇に置いていた木

 材とコンクリの壁の間で鳴いていた、あの小さなこおろぎは、辞書に載ってはいない

 のだ。

  では、俳句の形式化はどのように果たされていったか。虚子が主張した「有季定

 型」とは、日本の伝統の美意識である花鳥風月を大事にすることだ。せいこうの言

 葉のように「花鳥風月というのは、和歌からずっと来ている形式ですからね。極端

 に言えば、ものは見ないでも書ける。ということは形式の中だけでできる。」という

 ことになる。いくら実物を見、写生により句作を行えと言っても、作者の視線が既成

 概念や辞書の範疇から出ていないのであれば、形式化された言葉から逃れること

 はできない。逆に言えば、そこから逃れるための写生という教えだったのかもしれな

 いが、歳時記から逸脱せず、句会でみんなに伝わる表現で、五七五という短い定型

 におさめて、というルールを敷かれては、そこからはみ出すことは難しい。「有季

 定型」という考え方は、五七五プラス季語という句形の形式を盤石としただけでな

 く、そこで扱う言葉の意味までも、強い形式化を促す流れを作ってしまったのではな

 いか。

  しかし、形式化された言葉で作った俳句がなぜいけないのか。それは、俳句の解

 像度に関する問題だと思う。辞書の「こおろぎ」には、個別の要素は含まれていな

 い。そのものに出会ったときの、五感も、心情も、直感的に掴む対象の神性もあり

 はしない。圧倒的に情報不足で、対象の解像度が低くなるのだ。和歌からきた花

 鳥風月の伝統も紛れもない俳句の形の一つである。しかしどうも、高い知性による

 高尚な趣味という側面がある。実物に会ったときの好奇心を大切に、自分の人生や

 ら生きることやらを考えていくとしたら低い解像度では力不足だ。単純に、そのテの

 俳句では、自分は満ち足りないと思う人々が、確実にいる。実物の「こおろぎ」は、

 生々しい一匹のものである。「俳句はアニミズムである」としたら、「俳句は、個々

 のものにある具体性と、それぞれに宿る霊魂・精霊を感じること」であると前回語

 った。せいこうの的確な言葉を引くと次のとおりである。「アニミズムでやれという

 のは、一回性です。一回出会ったこおろぎを、出会ったお前が書いておけということ

 でしょう。それは今までの日本の定型詩にはないことを言っているんですね。」。 

 だからといって、作者の感情を強く打ち出すような自己表現に強く傾いてもアニミズ

 ムが消されてしまうという。自己中心的になりすぎては、自然と対等であるという感

 覚は得られないだろう。しかし、自分の生の感情に向き合うことで、言葉の形式化か

 らは逃れられるかもしれない。だがそれは当然、自然物を読む必然性が薄れてく

 る。せいこうの言うように「形式から逃れようとしつつ、形式のうまさを利用してき

 た人たちがいる。」のだ。

  自然物に対する一回性を詩形の中で行うという試み。それは、俳句のような短詩

 形が一番実現しやすい表現形式かも知れないと、せいこうは分析している。「散文

 でもし、こおろぎのことを書いたとしても、例えばその文脈全体の中でこおろぎがた

 くさん出てくる意味とか、そういう「関係」が出てきちゃう。文章の中で、こおろぎ

 だけを物として突出させることができない。」。詩形の中でこおろぎだけを物として

 突出させる、それは前回語った「切字は意味を多重化する」という俳句の特徴にも

 つながる。

  結論として、「俳句はアニミズムである」という言葉で兜太が掲げた内容は、こん

 な感じだろうか。アニミズム的感覚により、万物の個々のものにある具体性と、それ

 ぞれに宿る霊魂・精霊を感じる。それによって、自分が体験した生々しい感覚を、万

 物に相対した一回性として、俳句という詩形によって読み込むことができる。それ

 は、形式化して死んでしまった言葉を、蘇生させていく力を持っている。

  「有季定型」の花鳥風月でもなく、自己表現重視でもない俳句の道として、アニミ

 ズム的俳句が開かれているのだ。それは、俳句形式にぴったり来るにも関わらず、

 兜太によれば、いままで通ってきた者も少ない、可能性に満ちたジャンルだと言うこ

 とができる。

  さて、ここまででやっと、兜太の「俳句はアニミズムである」を自分なりに整理で

 きたところだ。読んで頂いた方は、お付き合いいただき感謝の次第である。




                    パソコン上表記出来ない文字は書き換えています
                copyright(C) kogumaza All rights reserved