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小熊座・月刊
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2022 VOL.38 NO.442 俳句時評
俳句で何をどう詠むのか
渡 辺 誠一郎
先日新型コロナウイルスのワクチンの三回目の接種を済ませることができた。
今の世は、ワクチン接種したところから、何事も始まるようで不思議な感覚にとら
われる。一方、体の事情などで、ワクチンの接種が受けられない人たちの気持ちを
考えるとさらに複雑な思いになる。世の中が個人の思いから遙か遠くから働く力で
動かされていることが良くわかる。疫病のみならず、武器を持って戦う戦争なども、
思いも寄らぬ遙か遠くのところで始まり、いつのまにか頭上間近に及んでくることも
あり、一寸先が闇。ウクライナ情勢が心配。
一方、この俳句時評を書くときに苦労するのが、何を書くかということだ。いつも
頭をなやませてしまう。私の時代認識の浅さもあり、俳句時評として扱うべきテーマ
がなかなか見えてこないのだ。もっぱら俳壇の高齢化の課題や新型コロナウイルス
が蔓延することに伴い句会等が縮小していることなど頭を過ぎるが、俳句の行く末
まで頭が回らない。
過日、現代俳句協会の企画で、地区会長のインタビューへの参加を求められた。
現在小生は宮城地区の会長なのだが、何も話をすることはないので断っていたの
だが、輪番なので、との強い勧めもあり、また小田島渚さんという強い助っ人が現
れたので、四十分ほどの番組になんとかまとめることが出来た。インタビューは、小
生の「俳句と写真」の展覧会の会場を選んだこともあり、展示していた俳句の書や
『俳句旅枕 みちの奥へ』に掲載した写真を取り上げての語りだったので、かなりわ
かりやすい映像となった。YouTube で視聴できるので良かったら見て欲しい。
少々宣伝めいた話になったが、このインタビューの最後に、「新しい俳句とは」と
の問いがあった。
人はいつも新しいものを探し求めている。それが良しとするところがわれわれには
ある。経済で言えば、絶えず成長し続けなければならないという恐怖感に似ている。
しかし、進歩という言葉は、新しさと必ずしも表裏の意味を持たない。ましてや文化
芸術の分野においては、単純な話ではなくなる。そういえば、今日のニュースで、漫
画家のつげ義春氏が芸術院会員になったことを知った。新設なったマンガの分野
からは他に、ちばてつや氏とともに選ばれた。つげ氏などは、新しい表現を念頭に
作画していたとは思えない。つげの「ねじ式」などのシュールで難解なマンガは、娯
楽性の強かった当時のマンガの世界では否定的に捉えられていたものだ。俳句の
世界でも、金子兜太の前衛俳句や振興俳句と称された世界は、当時のいわゆる
伝統系の世界からは敬遠されていた。表現する者は時代の中で、単に自らの思い
を吐き出していただけだ。そこには表現して「愉快」、「充足する」と思えるところ
があったに違いない。表現とはそのようなものだ。もちろん戦時下で弾圧の歴史を
無視するわけにはいかないが。
新しい俳句への問いの答えとして、私のインタビューの中では、映画監督の小津
安二郎の日記の言葉を引いた。小津曰く「変わらぬものが新しい」と。そして「永遠
につうじていくものが新しい」と。つまり「変わるもの」と「変わらないもの」の試
行錯誤、迷いの中から、新しいものが生まれてくるということだ。私に言わせれば、
新しい俳句や未来の俳句などを妄想せずに、自分の好きなことを好きなように表現し
たらいいと思う。佐藤鬼房に「消せぬ詩を」との言葉があるが、これも思いの強さは
伝わるにしても、取りようによっては不遜なことだ。消えていく言葉、詩があっても
いいのではないか。人もやがて消えるように。残るのはよりよい俳句をつくりたいと
いう強い一人の俳人としての思いだけは大切にしたい。
ただ、新型コロナ下では、句会の開催すらも難しく、俳句の世界から遠ざかった句
友もいるなど、厳しい状況が続いている。しかしこんな時こそ自らの足元を見詰める
のも悪いことではない。足下に泉ありとはよく言ったもので、何処にも次の世界への
扉はあるものだ。こんな状況だからこそ、俳句の行く末についてじっくりと考える機
会なのかも知れない。
そんな中で、『俳句』一月号に、「俳句の宿題」をテーマに新春座談会が載ってい
た。メンバーは、筑紫磐井、対馬康子、阪西敦子、生駒大祐、髙柳克弘の各氏。
「宿題」とはこれからの時代に託すべき、あるいは託された課題という意味を込めた
のだろうか。復習予習とを綺麗に分けて考えるのは、なにか受験対策のようだ。若
い世代向きに編集部が考えたのか。それはそうと、メンバーそれぞれが、これから
の俳句を考えるためとして、「復習しておくべき五句」「予習しておくべき五句」を
挙げ、「過去の作品との向き合い方」「季題と季語」「俳句と主題」「高齢化」にお
ける可能性、「二十五年周期説」などと幅広く論じている。
目にとまったところでいえば、髙柳氏が、「今後は主題を詠んでいく時代になるの
ではないかとの予感」があると述べたところだ。この言葉には、平成の俳句が、洗練
されたところに特徴があったとの認識を踏まえている。すなわち、平成の俳句が、時
代と向き合った作品が乏しかったとも言える意味である。それは平成の時代が次第
に、ゆっくりと閉塞の空気を重くしていったからであろうか。あるいは主題を選択出
来にくい時代であったとも言えるのかも知れない。髙柳氏が予習の一句として挙げ
たのが、冨田拓也〈天の川ここには何もなかりけり〉。天の川と地上の現実の世界
を一句の中で捉えようとした世界。天の川から、それとは違う「何もない現実」を照
射させてみた一句。高柳氏は、ここに作者の抱いている主題を読み取ろうとする。
すこし歯がゆさはあるが、作者の主題を読み取れないこともない。しかし俳句といえ
ども、もう少し現実に言葉は肉薄してもいいようにも思えた。さらに五句には挙げて
はいないが、先に角川俳句賞で話題になった牛島火宅〈処刑後も夕顔別当まだつる
む〉のテーマ性にも注視している。
この時代の俳句におけるテーマ性、何を詠むのかなどについて、その意味すると
ころは何なのか、座談会の内容にもふれて次回でもう少し考えてみたい。
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