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 小熊座・月刊


   2022 VOL.38  NO.443   俳句時評


      考え続けることに伴う痛みについて

                         樫 本 由 貴


  今期も時評欄を担当させて頂くこととなった。まだまだ至らない点が多いが、引き

 続きよろしくお願い申し上げる。

  2022年1月3日、NHKで出演者がパンデミックに関する名著を持ち寄って議

 論する番組「100 分de 名著 スペシャル版 パンデミック論」が放送された。出演

 者で英文学者の小川公代は、20世紀モダニズム文学の主要作家ヴァージニア・ウ

 ルフの『ダロウェイ婦人』(1925)を紹介した。『ダロウェイ夫人』は、人の内

 面で流れる意識をそのまま表現しようとする文学上の手法「意識の流れ」を用い、

 第一次世界大戦後のロンドンに住むクラリッサ・ダロウェイのとある一日を描く。小

 川は「意識の流れ」によって様々な登場人物の思考に没入するウルフの共感する

 力に注目している。

  小川がこの番組に出演することになった一番のきっかけは、2021年8月に『ケ

 アの倫理とエンパワメント』(講談社)を刊行したことだろう。本著のキーとなる概

 念の一つはイギリスのロマン主義の詩人ジョン・キーツが唱えた「ネガティブ・ケイ

 パビリティ」である。簡単に言えば、不確実なものや単純な答えを出せない問いを

 受け止める能力を意味する。この力の行使には痛みが伴う。簡単に答えが出せな

 い問いは、その不確実性が考える人間を苛むからだ。こうした問いに向き合い続

 ける力は、手元の端末でなんでも検索し、分かりやすい答えが手に入れられる時代

 に生きる私たちに、決定的に欠けている力と言える。

  2021年1月 の『俳句』(角川文化振興財団)の新春座談会(参加者は大西

 朋、片山由美子、関悦史(司会)、鴇田智哉の四人)は、ほとんど全編を通して「コ

 ロナ禍」で一変した2020年の社会と俳句を振り返っている。見どころの一つは、

 俳句との接し方はパンデミックの渦中にあることで変化したかと問われた際の、片

 山と鴇田の対照的な在りようだ。片山は「ひと頃、(筆者注=俳句が)できない」時

 期はあったものの、感染症の流行には影響は受けなかったと断言する。

  一方、鴇田智哉は感染症を意識することで「ものの見え方、人との距離感が変わ」

 り、自己の存在の「容積のありよう」が変化したという。「こうした認識・心の変容

 は俳句の土台でいちばん大事なこと」であり、その変容のインパクトは東日本大震

 災の「再来」に匹敵する。さらに「見え方の変容が言葉に現れるはずだと信じて俳句

 を続け」「自分のあり方を再認識し」たと続けた。鴇田の営みは困難な状況に相対し

 て変容する自己と、その自己から生み出される俳句とに創作者として向き合い続け

 るものであり、ネガティブ・ケイパビリティに近い営みだ。

  鴇田の言葉を受けると、片山がパンデミックに影響は受けなかったのは本当だろ

 うかと思いたくなる。片山は虚子の「俳句は戦争に何の影響も受けなかった」という

 言葉を引用しているが(『ホトトギス』は休刊したものの)虚子は戦時中に句作を休

 んだ形跡はない。ならば俳句が「でき」なかった片山には何かがあったのではない

 か。

  この「何かがあったのではないか」という疑問は、一見「考えている」ように見え

 るが、その性質は虚子の「俳句は戦争に何の影響も受けなかった」という答えを引

 き出し、この答えに「憐むやうな目つき」をした新聞記者が抱いていた期待と似てい

 る(『虚子俳話』)。「戦争」や「コロナ禍」という分かりやすい物語に創作者の言

 説を回収し、分かりやすい答えを出そうとしているからだ。この場合、必要なのは

 片山の論理の側に立ち、何故影響はなかったと断言するのかを考えることだろう。

  二年前には目新しかったリモートワークやマスク着用といった〝風景〟も今や日

 常だ。慣れてしまえば、それについて考え悩む時間は短くなる。2022年もパンデ

 ミックに収束の気配はないが、一月の『俳句』の新春座談会(参加者は生駒大祐、

 髙柳克弘(司会)、筑紫磐井、対馬康子、阪西敦子)では新型コロナウイルス感染

 症の話題は全く出てこない。「俳句の宿題」と銘打ったこの座談会は、俳句人口の

 偏りや俳句の主題の表し方など、多くの議論が重ねられてきた問題が再考されてい

 る印象である。

  座談会では、パンデミックがもたらした「俳句の宿題」は特に語られなかった。し

 かしパンデミックによって生活に浸透し、それ故に今後の「俳句の宿題」となるだろ

 う問題は2022年の始まりに語られるべきだったのではないか。例えばハード面

 だけの問題でも、句会の主要な形態がオフラインからオンラインに移行したことや、

 ネットプリントやPDFでの同人誌の発行が加速し、アーカイブ化が難しくなったこ

 とがあげられるだろう。こういった視点からの議論がなかったのが残念だった。

  だが、俳句の「読み」に関する議論には注目した。生駒大祐は、俳句は過去の俳

 句を引き継ぎながら書かれるべきだという自らのテーゼを説明し、それを「参照性」

 という言葉で説明する。これに対し髙柳克弘は所謂内輪ネタに終わるのではないか

 と危惧するが、生駒は俳句を読む行為と作る行為は切り離して考えられると応じた。

 先行句を参照して作られた俳句であっても、俳句としての強度が高ければ多面的

 な鑑賞が可能であり、参照性を利用した読みは読み方の一つでしかない。この主

 張には髙柳と筑紫、対馬が同意したように、筆者も同意する。生駒は、参照性を用

 いることは目的ではなくあくまで良い俳句を作るための方法なのだと主張しているの

 であろう。

  しかし、多面的な読みの許容は読み手一人一人の責任の免除ではないということ

 に注意したい。「読みの一つに過ぎないから」「読み筋として間違ってはいないか

 ら」と、読み手が自らを許してしまってはいけない。優れた読みは存在する。でな

 ければ今なお虚子や高柳重信、山本健吉が重用されるわけがない。彼らの読みは

 「多面的な読みの中の一つ」でありながら一等の輝きを持っている。生駒らの言葉

 はそれを志向しなくていいという免罪符ではない。むしろ、社会学や文学において

 多様な価値観を議論する枠組みが整理された現代でこそ、俳句の読みに透けて見

 える読み手の価値観や想像力の射程が試されている。

  とはいえ一度完成した読みを省みることは苦しい。実例として、外山一機「それは

 僕らのものではない―高野ムツオの震災詠について―」(2021・11・21、ブ

 ログ「俳句ノート」)を挙げたい。この記事で、外山は「僕たちは「高野ムツオ」で

 感動したい」(2014・5・30、-BLOG 俳句新空間-)で示した自身の批評を自

 己批判している。過去、高野の句に物語を求め、中央の論理を孕む歌語を通し

 てしか俳句を読めていなかったのではないかという自己批判は、七年間この

 一句を折に触れ思い出し、読解する自身の価値観を疑っていたからこそ行わ

 れた。俳句の読みとは、こうした責任を担う行為なのである。




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