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小熊座・月刊
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鬼房の秀作を読む (139) 2022.vol.38 no.443
春雪や血が滓になる労せぬ日
鬼房
『海 溝』(昭和三十九年刊)
この時期の鬼房には労働の句が多い。自分の職場である冷凍倉庫はもちろん、農
業、漁業、港湾、鉄工所などさまざまな労働現場を詠んでいる。高度成長が始まった
ばかりで、まだ社会全体が貧しかった昭和三十年代。鬼房の句に描かれる人々もみ
な貧しく、ある者は泥に、またある者は油や錆に汚れている。そのような冷たい現場
のなかから生身の「人間」を取り出して描くということが、同じ労働者としての彼ら
への共感の表し方なのであろう。
さて掲句、このころの鬼房は胆嚢病を宿痾としていたから、病中の作かもしれな
い。病気で仕事を休んだある日、病院への道すがらなのであろうか、働く人たちを見
ているのである。同じ地域に住み、同じような境遇にある人々を親しみをもって眺め
ていたにちがいない。彼らの筋肉が動くたび、伸び縮みするたびに、その身体の中
を熱い血が躍動するのが見える。翻って自分。病中の身、その血もどこかに滞り、滓
のようになっているように思われてならない。労働に生きる身の上なのにそれが適
わない、彼らと同じ血の動きを感じ取れないという、鬱屈した心情を表白したものな
のではないだろうか。
折しも北国・東北には春の雪が降っている。掲句の「春雪」は、「春」という希望
の象徴のような言葉の響きとは裏腹に、雪の非情さばかりを感じさせる。
(鈴木 牛後「藍生」「雪華」)
何と凄絶な吐露であろう。エネルギーを小脇にしているような吐露。自虐とは違う
吐露。一家の大黒柱として働き詰めの日常のなかで、肉体を使えない無為の時間は、
不安や焦燥感の極みであったと想像される。
「血」は生命そのものだが、鬼房にとっては詩の世界への志の血でもあり、詩を湧
出する源にほかならない。現実の生活と精神を支える血液が残滓となる感覚は、もし
かしたら死よりも忌まわしく、人間性を消滅させる危うさであるものなのか。まず労
働があって、その中に魂を遊ばせる時空があってこそ、鬼房の血は鮮やかなのだ。
「雑草のうた」と自句を表する所以と受け取れる。
ずっと以前、別々の場面で偶然、平畑静塔と鬼房の手に瞬時、触れたことがあっ
た。その感触が同じように思えていまだによみがえってくるが、それは強いて言え
ば、秋の日和に似た感覚だ。ご両所の関係は周知のことだが、静かに滾る俳句への思
いをお互い通わせていたのでは、と実感したことが忘れられない。
掲句に戻ると、春の雪がしみじみとする。緩やかに舞う春雪に詩の魔力を呼び込
み、暖かくなって活力の戻る己を信じる眼差しが明らかに見えてくるように思う。物
心両面を希求してやまない鬼房の真っすぐな人間味を示した作品であろう。
(中井 洋子)
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