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 小熊座・月刊


   2022 VOL.38  NO.448   俳句時評


    俳人の晩年、最期の俳句 子規・虚子(1)

                         渡 辺 誠一郎


  近頃老いを自分で意識しているわけではないが、俳人の晩年―老い、最期の俳

 句世界が気になっている。超高齢社会の今日、高齢者としての俳人の生き方、死

 への態度は我々にとっては大いに学ぶところがある。さらに俳人の晩年、死の側か

 ら逆照射することによって、その俳人の俳句世界を改めて捉えることができるように

 思うのだ。

   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

   痰一斗糸瓜の水も間にあはず

   をとゝひのへちまの水も取らざりき

  良く知られる正岡子規の絶筆の三句である。子規はこの句を事前に作っていたと

 の話もあるが、いずれにしても、最後に筆を置いた句である。子規は『病床六尺』の

 中で、亡くなる一月前に、病床における百日が十年にも値すると述べている。それ

 はまさに肉体的にも精神的にも壮絶にして濃密な日々であったことを意味する。しか

 し病と闘いの中にあっても、俳句はもとより世情のさまざまなことへの関心と興味は

 衰えていない。そんな中で詠まれた最後の句には、力みはなく、むしろ余裕のような

 ものすら感じられる。自らを仏に見立てるところなどは、可笑しみすら感じる。私な

 ら子規のような病に伏せっている状態では、このようにとうてい詠めそうにない。詠

 むこと自体を放棄してしまうだろう。少なくとも子規のように、病や死に正面から対

 峙する自信は私にはない。誰もが知っている宮沢賢治の詩、「雨ニモマケズ」の一節

 には、「南ニ死ニソウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」がある。美

 しい言葉である。しかし死に際にある時、この言葉にどこまで心が慰められるのかは

 疑問だ。激痛の中では、このような言葉よりも、鎮痛剤のモルヒネをさら打つことを

 懇願することのほうが現実だろう。しかしそれも人によって異なる。誰もがその時に

 ならなければ分からない。

  老いや死はそれぞれの人に「相応しい」姿でやってくるのかも知れない。子規に

 は子規のふさわしい最期であったと言ったら残酷であろうか。病や死は選びようが

 ない冷厳な現実であることには違いない。『病床六尺』の世界からもわかることだ

 が、子規は常人とは違う強靭な精神の持ち主であった。それも単なる個人の強い精

 神力ということにとどまらないように思える。明治という時代精神のエネルギーが、

 子規の生を支えていたのだ。『病床六尺』の中で、子規は明治維新の改革を成し遂

 げたのは若者であり、同じ様に俳句界の「改良」も青年の力であると述べている。

 このように、新たな表現世界を切り開くのは、自らが背負っているとの自負と覚悟が

 あった。それが生きる力に少なからず役立っていた。友人の漱石は、明治維新の

 志士たちが命のやり取りを政治の舞台で演じたように、小説という舞台でこれを演じ

 ようと覚悟を決めていた。これに対し子規は、俳句のみならず短歌を含めた多くの

 表現の土俵に上がろうとした。使命感は人を強くする。

  子規は『病床六尺』の中で、次のような言葉も残している。「余は今まで禅宗のい

 はゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りというふ事は如何なる場合にも平気で死

 ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生

 きて居る事であつた。」。「如何なる場合にも平気で生きて居る」のは、まさに悟り

 を感受した人間の話で、普通は悟りきれないのが現実である。子規は自らそのよう

 な意志を持ち、志向していたのだ。その意味でも『病床六尺』を手に取るたび、子規

 の生への向き合い方には感銘を受ける。

  子規の弟子であった高浜虚子の最後の句とされるのが、

   独り句の推敲をして遅き日を

 である。昭和三十四年の作。虚子は八十五歳で亡くなる。子規の最後の句の世界

 とは明らかに違う。この句からは、やはり俳句を日常の諷詠としていた虚子ならで

 はの世界が伝わってくる。作句、推敲にあけくれた虚子の晩年の日々のいつもの

 表情が浮かび上がる。

  しかしこの句には「句仏師十七回忌追憶」と前書があり、東本願寺前管長である

 大谷句仏を詠んだ一句である。そうだとしても、この句をそのまま虚子の俳句日常

 に重ねても十分意が通る世界である。虚子はこの句を四月一日付の葉書に認めて

 いる。そしてその夜に脳幹部出血となり、昏睡の果て、一週間後に亡くなっている。

 虚子自らが意識して筆を執った絶筆ではないにもかかわらず、日常を詠み日常に

 死を迎えた、虚子の最後の句にふさわしい自然体の世界であると思える。

  ところで虚子は、死を前に病に伏せていた内藤鳴雪を見舞った時、辞世の句につ

 いて話を交わしている。この時、鳴雪は亡くなる時には辞世の句を詠みたいと語って

 いる。これに対して、虚子は「芝居気」があれば別だが、「特に辞世など詠むのは嫌

 いぢゃ。」(「ホトトギス」大正十年四月号)とはっきり態度を明らかにしている。

 あくまでも日常を大切にし、その延長の先に死を置きたい、死を迎えたいと考えて

 いたことがわかる。

  虚子にとっての死を考えるとき、風生を詠んだ次の俳句を思い出す。

   風生と死の話して涼しさよ

  風生とは、富安風生のこと。風生は、旧逓信省の役職にあって、水原秋桜子や山

 口青邨らと東大俳句会の発足に関わったことで知られる虚子の高弟。俳句は、端

 正にして飄然とした、懐の深い作風で知られる。

  虚子は、亡くなる一年半前に、風生と実際「死の話」をしているのである。風生は

 この時虚子と交わした話を「ホトトギス」(昭和三十四年六月号)に書いている。虚

 子は風生に死ぬことはこわいかと尋ね、「自分は死ぬことは、ちつともこわくありま

 せんね」と答えている。虚子にとって、死は特別なことでないとの思いがあった。死

 への恐怖は誰しも少なからずあるものだが、虚子の心境としては自然に受け入れる

 ものであった。「死を客観視するということで言うと、虚子はかつて川端茅舎の〈朴

 散華即ち知れぬ行方かな〉の句に対して、「茅舎は自分の死のことを言はず、朴散

 華のことを言つた。茅舎は自分の死を客観視し、草木を諷詠した。」(『虚子俳

 話』)と評したことがあった。これとも通底する虚子の死への態度そのもののよう

 に思われる。一方風生の晩年の俳句を見ると、〈勝負せずして七九年老いの春〉

 のように、自らの老境を力みなく諷詠している。その姿には共感を覚える。絶筆

 は〈九十五齢とは後生極楽春の風〉、見事な一句である。

  虚子の話に戻るが、最後の句を詠んだその前の三月三十日の句会には、〈謡会

 果たして花は未なりし〉〈春の山屍をうめて空しかり〉を出句している。時の移ろい

 におのれを重ねる句境の定まりは確かである。未だに俳句に迷いのある小生には

 まねができないことだ。




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