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小熊座・月刊
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2022 VOL.38 NO.449 俳句時評
価値観のかさぶたをはがして
樫 本 由 貴
六年前の2016年の7月26日に相模原障害者施設殺傷事件が発生した。犯人
の植松聖死刑囚は「意思疎通の出来ない重度障害者は安楽死させるべきだ」とい
う思想に基づき、津久井やまゆり園の入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わ
せた。この事件が社会に与えた衝撃は計り知れない。
人材派遣、グローバル人材、人材開発……「人材」という言葉が飛び交うようにな
って久しい。「人材」とは「才知のすぐれた人物。役に立つ人物」を指す(『日本国
語大辞典 第二版』)。学校や会社など、所属する集団から「人材育成」の名のもと
に教育を施された人も多いだろう。筆者も例に漏れずその一人だが、筆者は現在
に至るまで、かなり恵まれた教育環境にいたように思う。出会った先生たちは、人
材育成を施しつつも、たびたび「人は何かの材料なのか」という問いを与えてくれ
た。この問いとの対峙を長らく先送りしていた私に突き付けられたのがこの事件だ
った。事件以降、〝社会の役に立たない〟と決めつけられた人々のこと、〝社会
の役に立つ〟ように教育され〝社会の役に立つ〟ことを学び、これを全き善として
過ごしてきた自分のこと、そうした自分が内面化していた〝社会の役に立たない=
悪いこと〟という価値観について省みることが欠かせなくなった。
今も優生思想は社会に根強く残っている。「障害者は生きていても仕方ない」という
極端な発想に対しては断固として反対する声もあろう。だが、6月に公開された映画
『PLAN 75』の「75歳以上の高齢者に安楽死を選択する権利を付与する社
会」という設定に対しては、肯定的に受け止める向きも多いのではないか。しかし
この権利が現実に導入されれば「人に迷惑をかける」という理由で安楽死を選択する
/させられる人が生まれるだろう。人の役に立つことを是とし、役に立たないことを
非とする価値観は根強いのだ。
人は何かの材料になるために生まれてくるのではない。人はただそこにいる。た
だそこにいる他者を、自分や社会の役に立つか立たないかで判断することはあって
はならない。そう自分に言い聞かせ、ふとした瞬間に他者に向ける辛辣さ、「人材」
という言葉のオブラートに包まれたさもしさを退け続けるために、苦しくも自省する
日々である。
どうして俳句時評をこんなことから書き始めたか。それは遅まきながら、5月21
日に行われた第六回芝不器男新人賞の最終選考会での出来事に言及したいから
だ。既に7月16日発行の『図書新聞』の文芸時評欄で、岡和田晃が的確にこの出
来事の問題点を指摘している。だが、俳壇のどのくらいの人間が図書新聞にアクセ
スしたであろうか。
出来事の概要はこうだ。特別賞選考委員の関悦史氏が、髙鸞石氏に対し「人格
障害だ」と発言した。この音声はZOOMを用いたリモート中継に乗り、中継を聞い
ていた人々の耳に入った。選考会終了時点で参加者から疑問の声が上がり、実行
委員会もこの事態を看過せず、俳壇にしてスピード感をもって謝罪文が出されたよ
うに思う。しかし、岡和田が述べるように関氏の発言は障害者差別である。公式HP
に掲載された「お詫び」の「名誉を傷つける不適切な発言」という表現は問題の本質
をぼかしてしまっている。当人が精神病を抱えていようがいまいが、それを嘲ること
は絶対に許されない。
これまで関氏は批評家として文章を発表する機会も多く、彼の口から差別発言が
出たことに驚いたり失望したりした向きもあろう。しかし筆者には此度のことが、内
なる本心が発露した事例に思えてならない。誰しもの心の中にある、自分に負荷を
かけている(ように思える)存在への葛藤が、一番あってはならない形で表れたの
だ。ZOOMで中継されているにもかかわらずそのような言葉が口を衝いて出たの
は、SNSの頻用による自己の拡張も、一因のように思う。
髙氏は普段、ツイッターやブログで俳壇への批判的な文章を攻撃的な表現で書
いている。そういった彼の態度に対する反論は差別の言葉ではなく、練られた言葉
で行われなければならない。
フェミニズムに関しては、言葉を練る俳人がずいぶん増えた。本年度の現代俳句
評論賞の受賞作、岡田一実「『杉田久女句集』を読む――ガイノクリティックスの視
点から」はその成果の一つだろう。本作は久女の俳句をガイノクリティックスの視点
から読み直し「男性ジェンダー化した批評の相」の相対化を試みている。フェミニズ
ム批評の一つであるガイノクリティックスとは、これまでジェンダー男性中心に語ら
れてきた文学をジェンダー女性の目線でとらえ直し、再評価していく試みのことであ
る。女性作家の作品を発掘し、作品の読解に新しい地平を開いてきた。本作は、
青本瑞季が神野紗希『女の俳句』(2019)の、松本てふこが同『すみれそよぐ』
(2020) の書評(『俳句α あるふぁ』2020年春号、『現代詩手帖』202
1・10)で試みたことを、分かりやすく啓蒙しているともとれる。
青本瑞季は本年『現代詩手帖』九月号の特集「わたし/たちの声」にエッセイを寄
稿している。このエッセイで、青本は『小熊座』2021年11月号に寄稿した拙評
に対し、フェミニズムはもはやシスジェンダー女性だけのものでなく、トランスジェ
ンダーほか全てのマイノリティのために開かれた概念だと述べ、回答としている。
異論はない。フェミニズムが人権に関する思想・運動である以上、全てのマイノリ
ティに開かれた概念であることは当然と思う。繰り返すが〈女〉を再定義しなかった
『女の俳句』に対する青本の批評は妥当だ。しかし『すみれそよぐ』の読解におい
て、集中の「女性的な」振る舞いを皮肉なく表現する境涯詠をただ批判することは、
筆者にはできない。『すみれそよぐ』にあるのは、人生のなんということはない出来
事が、少しずつ上手くいかない、現代女性の生きづらさの一つに違いないからだ。良
きパートナーに恵まれ/パートナーを作らずに済み、自立/共助でき、自分の選択
したことに自信を持てる。そういう理想の通りにはいられない、規範の中で「何かお
かしい」と思いながらもがく、〈私〉ではない〈私〉の姿だからだ。
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