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小熊座・月刊
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2022 VOL.38 NO.450 俳句時評
主観客観私感
及 川 真梨子
近頃気になっている言葉があって、それは「主観」と「客観」ということなのだ
が、今回はこれについて簡単に触れてみようと思う。といっても日々の生活に追わ
れて何か文献を紐解いたというわけではない。当然それはすべきなのだが、紐解く
前の雑感を書き留めておくのも、有意義ではあるだろうと自分を納得させて、ともか
くまずは書いてみようという試みである。
さて、句会に参加していると、先生の評や参加者の感想の中に「この俳句は主観
的である」という言葉が出る。内容をよくよく聞いてみると、どうやら指している意
味がいくつかあるようだ。なんとなく区別はつくのだが、中には何を言いたいのか意
味を飲み下せない事もある。様々な場合において示すところが変わってくるこの「主
観」という言葉には、どんな使い方が秘められているのだろうか。
また、対となる「客観」という言葉がある。客観と言えば自ずと高浜虚子の「客観
写生」、「花鳥諷詠」という言葉にたどり着く。俳句の基本といわれた言葉である
が、俳句に携わる多くの人が知るように、この理念の解釈も多岐にわたるだろう。
「客観写生」が示すところが曖昧なのも、「客観」及び「写生」の示す意味がが受け
取る人によって変わってくるからではないだろうか。
ほんとうなら主観・客観をについて書くなら、近代哲学を避けて通れないのだろう
が、さらりと躱して実用性重視で行きたい。
主観、客観という言葉を考えようと思ったが、どうやら「主観的」、「客観的」と
言っても大分指すところが違ってくるようだ。
例えば、広辞苑を引くと次のような意味が載っている。
・主観…客観に対する語。…近代以降意味を転じ、対象を構成する自我や意識の
意となった。(略)単に認識主観にとどまらず、実践的能動性と自由の基体として主
体とも呼ばれる。②自分一人の考え方や感じ方。
・客観…①主観の認識および行動の対象となるもの。②主観の作用とは独立に存
在すると考えられたもの。客体。
・主観的…①主観による価値を第一に重んずるさま。主観に基づくさま。②俗に、自
分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。
・客観的…特定の個人的主観の考えや評価から独立して、普遍性をもっているこ
と。主観、客観の語には同義として「主体」、「客体」という言葉がある。
・主体…②(略)(ア)性質・状態・作用の主。赤色を持つ椿の花、語る働きをなす
人間など。(イ)主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我を指すが、主観を主
として認識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調
するためにこの訳語を用いるに至った。
・客体…客観②に同じ。特に主体に対応する存在。また、主体の作用の及ぶ存在。
多く行為や実践の文脈で用いられる。
こうして並べてみると、六つの語に意味の錯綜があることがよくわかる。哲学的な
用語の意味と、日常的な用語の意味が混じり合い、場面と登場する要素によって、
呼び方が変わってくる。よく読めば、主・客が同じ物を指す時さえある。
それぞれを捉えやすく記そう。
主観とは「その人個人の考え方」である。その人そのものを指す時もあるが、それ
は主体という言葉に任せる。主観的とは「その人個人の考えに基づくこと」である。
主観という言葉を用いて意図がわかりづらくなるのは、この「その人」が誰なのか曖
昧なまま会話が進むときだ。まず大別しなければならないのが、「作った人」なの
か。「読んだ人」なのかということ。どんなに作品に共感したとしても、自分の考え
が作者と同じだというのは幻想である。また、作者が読者であり、読者が作者であ
る事が多い俳句では、作品への感情移入や「私だったらこう作る」というアグレッシ
ブな鑑賞もよく起こる。「考えるその人」が誰なのかは意識しなければならない。主
観における作者と読者の混同、ということをポイントとしておいておこう。
次に主体が何を指すのか。これも文脈によって変わるので大変困る。前段の解釈
からは「考えるその人」を指すが、動作をする「そのもの」も主体と呼ばれている。
俳句の中で飛ぶ鳥、真っ赤な林檎、楽しげに吹く春風、みな主体と呼んでも間違い
ない。性質・状態・作用の主というだけでなく、俳句における物への感情移入や擬
人化の効果もある。主体は人間、客体は物という考え方は、正確ではないがわかり
やすいだろうが、物を人のように扱う俳句ではしっくりこない。
本来なら「主体=考えるその人」に対して、「客体=考えられる対象」と分類して
いいのだろうが、前述の通り、主体と呼ばれる物が様々あるため、対応する客体も
増えてしまう。句会の感想として実用的に使うには、その動作をする物は何か、とい
う点を明確にするのがいい解決法かもしれない。句の外で考えているのか、句の中
で描写されているのか、それは分けて考えるべきだろう。
さらに「作中主体」という言葉が時折聞かれるが、これは句の中に人物や人物の
動作が現れた時に多く使われる。話を区別するためだろうが、そのまま迷いの表れ
でもあるだろう。俳句に顔の無い人物が現れたとき、それは作者なのか、読者なの
か、作品の中の主人公なのかが混同する。語りたい気持ちはあるのに、語る人の
把握にも聞き手の捉え方にも混同が起きてしまう。
ところが「作中主体」も完璧では無いのでまだ困る。それは先に述べたように、主
体に「考えるその人」と「動作をするその人」があるからだ。
それを考える二句を提示して、今回は誌面が尽きる。
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田 蛇笏
草いきれ吸って私は鬼の裔 阿部なつみ
(第二五回松山俳句甲子園 最優秀句)
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