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小熊座・月刊 |
2023 VOL.39 NO.453 俳句時評
主観客観私感(2)
及 川 真梨子
前回を読み返したら、途中から自分でも何を書いているのかわからぬ内容にな
っていた。反省。この文章は、俳句の鑑賞でよく出てくる、主観、客観といった言葉
の意味をかみ砕いて、実用的なものにしようという試みである。
主観、客観という言葉を捉える時に、まず、関連した六つ言葉を押さえようとし
た。六つとは次である。
・主観/主観的/主体
・客観/客観的/客体
さらに、「主観/主観的/主体」の解釈を次のようにまとめる。
・主 観…その人個人の独特な考え方
・主観的…その人個人の独特な考えに基づくこと
・主 体…①考えるその人、②動作をするその人(物) 主観がいろんなことを差し
てしまう理由の一つは、「その人」に読者と作者の両方が含まれるからだ。
例えば次の句を考えてみよう。
葡萄食ふ一語一語の如くにて 中村草田男
句が示す所は「葡萄を食べることはまるで一語一語のようだ」といったところか。
深い解釈は他に譲る。ここで一つの問いかけをしよう。
「葡萄を食べることが一語一語のようだと感じるのは、主観である」としたとき、
その主観は誰のものだろうか。
答えは先に言ったとおりだが、①作者、②読者の場合がある。
①作者の場合、「「葡萄を食べることが一語一語のようだと感じるのは作者の独特
な考え方だ」となる。葡萄を一語と表現したのは、草田男の独自の感性である、とい
う風だ。
②読者の場合、「「葡萄を食べることが一語一語のようだと感じるのは読者の考え
方だ」となる。これには多少違和感があるだろう。
なぜなら、文法として「如く」という直喩が使われているため、葡萄=一語という
解釈に、読者の考え方が入る余地がないからだ。
ここまで考えて、主観を問う時には、俳句の「第一義的な意味」が大きく関わって
くると強く感じた。「第一義的な意味」はあるいは「直訳」と言ってもいいかもしれ
ない。
「第一義的な意味」とは、助詞や使われている語、文法から、まずこの句がどうい
う意味かを押さえたものである。先ほど句で言うと、「葡萄を食べることはまるで一
語一語のようだ」という部分だ。
例えば二〇二二年の俳句甲子園で次のようなやりとりがあった。
麦茶飲む母を嫌いになりかけて 磐城高等学校
敗者復活戦で出たこの句に対し、岸本尚毅先生は、①まず「飲む」が終止形で切
れるのか、連体形で母にかかるのかを句の解釈の確認をしたい、②その上で、ど
んな場面が想起され、季語がどう効いてくるのか、鑑賞が膨らむように説明を、と質
問している。
岸本先生が言った、①句の解釈とは大前提となる句の意味のことだ。鑑賞のスタ
ート地点の確認である。俳句に慣れた多くの人は、本人が飲むと解釈するだろうが、
文法的に母が飲んでいるとも読むことが出来る。それを一度確定させないと②の鑑
賞の膨らみに進めない。
この例は口語だが、あるいは「第一義的な意味」とは、文語の句でより押さえるべ
き考え方かもしれない。なぜなら文語の句は鑑賞において必ず、現代語訳する必
要があるからだ。
同じ単語が異なる意味を持つことは、口語より文語の方が多いと個人的には思っ
ている。また、文語がごく当たり前で意味のブレも少ない、とされる考え方をもって
も鑑賞や付随する議論は口語で行うものだ。
俳句の鑑賞において、スタート地点である「第一義的な意味」を、鑑賞者が示し、
その場の人々で共有することは、大切な事なのである。しかし、人は自分の考えが
多くの人も同じであると誤解しやすく、「第一義的な意味」を意識せずに鑑賞や議論
が遠回りになることも多い。
したがって、俳句の主観という発言をするときには、①作者の主観と、②読者の主
観のどちらなのかを明示しなければならない。
さらに言えば、作者の主観は、俳句と俳句の「第一義的な意味」について言及し、
読者の主観はその後に続く鑑賞について言及している。
「第一義的な意味」が読者の主観であるとも当然考えられるが、「主観」における
「その人の独自性」という特性を考えると、一定程度共有のできる「第一義的な意
味」には、読者の独自性は含めない方が議論しやすい。あるいは、読者の主観によ
って「第一義的な意味」が複数ある場合は、それを押さえて議論しなければ、豊かな
鑑賞とはならないだろう。
さて、前回の引きに繋がることを書くスペースがすっかりなくなってしまった。
「主体」について書きたかったのである。
主観では①作者の主観と②読者の主観の二つがあり、この混同が主観という語を
をわかりにくく(あるいは通じにくく)させていた。といっても作者と読者という差
はあれ、思いを持っている人間について考えていれば良かったのだ。
しかし今度の主体には、①考えるその人と、②動作をするその人(物)の二つがあ
る。これに「作中主体」という言葉が大混乱をもたらしている。
例えば次の句を考えてみよう。
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田 蛇笏
蛇笏の句には主体と言えそうな対象が実はいくつもある。
一つ目はすすきを折り取り、重いと思った人間、二つ目は「はらり」からイメージ
の湧く、揺れるすすきである。
…といったところで紙面が尽きた。つれづれに書いているせいと、前回すっかりぐ
るぐるしたまま書いた代償である。ほぼ書き直しの感もあるが、どうぞご容赦くだ
さい。
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